「笑点」で司会者へ
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「三波伸介 (初代)」の記事における「「笑点」で司会者へ」の解説
1970年12月20日に日本テレビ『笑点』の3代目司会者に就任。そのきっかけは、同年2月8日にてんぷくトリオとしてゲスト出演した札幌の地方収録の回で、飛行機の欠航により出演できなかった前田武彦の代役として司会を務めたこと。当時はまだ司会経験が浅かったものの、元々落語に造詣が深かったこともあり、並み居る落語家達を相手に大喜利を取り仕切った。大喜利では、立川談志(初代司会者)時代のナンセンスなブラックユーモアを主体にした掛け合いから、落語家の丁々発止による掛け合いに代表されるような分かり易いドタバタ路線に変更。番組自体の人気を上げたことはもちろん、自身がピン芸人としてブレイクするきっかけとなった。 1973年5月12日に戸塚が肝硬変のため、42歳で死去。残った伊東と2人で「てんぷく集団」と改名し活動を続けた。 その後「てんぷく」の活動を抑え、個人でテレビや舞台で喜劇俳優・司会者として活躍。NHK総合テレビ「お笑いオンステージ」の「減点パパ(減点ファミリー)」コーナーでは、毎回ゲストの芸能人の似顔絵をゲストの家族の言う通りに描き上げ、自ら「阿佐谷のセザンヌ」と称した。 また、フジテレビ『夜のヒットスタジオ』の司会を1974年4月から1976年3月まで務めた他、同局『スターどっきり(秘)報告』や毎日放送・TBS『伸介のグリコがっちりショッピング』、東京12チャンネル→テレビ東京『三波伸介の凸凹大学校』などの司会を務めた。
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