「四つ橋」とは? わかりやすく解説

「四つ橋」(橋)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/16 16:01 UTC 版)

四ツ橋」の記事における「「四つ橋」()」の解説

現在、ともに埋め立てられている長堀川西横堀川十字交差した地点に「ロ」の字型にけられていた4つの橋総称である。これら4つの橋は、長堀川開削された1622年元和8年)より間もなくけられたと考えられる橋脚3本の柱横梁補強されており、径間数は7-8で、橋脚間の幅は平均4-5メートルであった推定されるの幅は、江戸時代前期にはそれぞれ約3メートルであったが、1881年明治14年)の記録においては約6メートルになっている本流淀川より離れた位置にあるが、1845年弘化2年)の淀川の洪水では、四つ橋のうち1つ流され記録がある。 上繋橋(かみつなぎばし) 西横堀川架かる北の橋橋の長さ江戸時代前期で33.6メートルであり、1881年明治14年)の記録では約35メートル。ほかの3つの違い、このだけが川の交差部よりやや離れてけられていたことから「縁切り」と呼ばれ別れを招くとされた。 1908年明治41年6月大阪市電東西線建設による長堀川北岸拡幅に伴い長27.2メートル、幅16.5メートル鋼桁架け替えられた。 下繋橋(しもつなぎばし) 西横堀川架かる南の江戸時代前期橋の長さは39.1メートルで、1881年明治14年)の記録では約35メートル炭屋橋(すみやばし) 長堀川架かる東の島之内西端旧町名炭屋町」に由来する江戸時代前期橋の長さは40.6メートルで、1881年明治14年)の記録では約35メートル吉野屋橋(よしのやばし) 長堀川架かる西の橋北堀江東端旧町名吉野屋町」に由来する江戸時代前期橋の長さは42.4メートルで、1854年嘉永7年)の番付表では約3メートル短くなっており、1881年明治14年)の記録でも40メートル弱である。 1924年大正13年)の更正第一次都市計画事業に基づき1927年昭和2年12月上繋橋1928年昭和3年2月下繋橋炭屋橋同年11月吉野屋橋架け替えられた。それぞれ全長25-34メートル、幅は上繋橋が27.4メートルであるほかは約9メートルアーチ橋で、アーチ橋としたのは河川舟運考慮したものと考えられる。しかし、太平洋戦争後の高度成長期になると自動車交通量急増し道路拡張のため、1964年昭和39年)、西横堀川埋め立てにより上繋橋下繋橋撤去され1970年昭和45年)には、長堀川埋め立てにより炭屋橋吉野屋橋撤去された。 なお、4つとも撤去されたが、上繋橋跡は長堀通東行き下繋橋跡は西長堀南通北堀江側)または鰻谷北通島之内側)、炭屋橋跡は横堀筋と、吉野屋橋跡を除いて現役道路として残っている。

※この「「四つ橋」(橋)」の解説は、「四ツ橋」の解説の一部です。
「「四つ橋」(橋)」を含む「四ツ橋」の記事については、「四ツ橋」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「「四つ橋」」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「「四つ橋」」の関連用語

「四つ橋」のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



「四つ橋」のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの四ツ橋 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS