「四・一六」以後の党再建
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「武装共産党」の記事における「「四・一六」以後の党再建」の解説
1929年の四・一六事件により、三・一五事件で検挙を免れていた日本共産党(第二次共産党)の地下党員が多数検挙・起訴され、特に佐野学・鍋山貞親・三田村四郎・市川正一ら、1926年第三回党大会で党が再建されて以来の経験豊かな幹部のほとんどが弾圧により獄中に奪われることになった。 このため1929年7月には、学生(新人会)出身の田中清玄が中央委員長に選ばれ、佐野博、前納善四郎らとともに党組織の再建にあたることとなった。田中らは日本共産党技術部(テク)をつくることに決め、また早急にコミンテルンとの連絡を回復しようと努力し、佐野の覚えていた上海のアドレスに手紙を送った。返書が来たものの彼らはこれを怪しいとにらんでおり、実際返事をしたのは警視庁の特高であったとされる。田中らはついにコミンテルンと連絡を取れぬまま、活動を続ける決意をしなければならなかったが、それはまず、活動資金を自らの手で獲得しなければならぬことを意味した。すなわちテクが活動を開始し、まずは文化人と学生から半年間で1万円以上のカンパを集めた。この時共産党に寄付した人物の中には山田盛太郎、三木清、河上肇、林房雄、大宅壮一がおり、当時、左派の代表であった共産党に寄付をする文化人は少なくなかった。党中央部は当局の厳しい監視の眼をくぐって各地を転々と逃げ回りながら、それでもついにソ連大使館を通じてコミンテルンとの連絡を回復した。この結果、1930年にはクートベなどへの留学生がつぎつぎに帰国し、日本からもプロフィンテルン第5回大会に紺野与次郎らを送り出した。
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