「四・一六」以後の党再建とは? わかりやすく解説

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「四・一六」以後の党再建

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/03 03:31 UTC 版)

武装共産党」の記事における「「四・一六」以後の党再建」の解説

1929年四・一六事件により、三・一五事件検挙免れていた日本共産党第二次共産党)の地下党員多数検挙起訴され、特に佐野学鍋山貞親三田村四郎市川正一ら、1926年第三回党大会で党が再建され以来経験豊かな幹部のほとんどが弾圧により獄中奪われることになったこのため1929年7月には、学生新人会出身田中清玄中央委員長に選ばれ佐野博前納四郎とともに党組織再建にあたることとなった田中らは日本共産党技術部テク)をつくることに決め、また早急にコミンテルンとの連絡回復しよう努力し佐野覚えていた上海アドレス手紙送った返書が来たものの彼らはこれを怪しいとにらんでおり、実際返事をしたのは警視庁特高であったとされる田中らはついにコミンテルン連絡取れぬまま、活動続け決意をしなければならなかったが、それはまず、活動資金を自らの手獲得しなければならぬことを意味した。すなわちテク活動開始し、まずは文化人学生から半年間で1万円上のカンパ集めた。この時共産党寄付した人物の中には山田盛太郎三木清河上肇林房雄大宅壮一がおり、当時左派の代表であった共産党寄付をする文化人少なくなかった党中央部は当局厳し監視の眼をくぐって各地転々と逃げ回りながら、それでもついにソ連大使館通じてコミンテルンとの連絡回復した。この結果1930年にはクートベなどへの留学生つぎつぎ帰国し日本からもプロフィンテルン第5回大会紺野与次郎らを送り出した

※この「「四・一六」以後の党再建」の解説は、「武装共産党」の解説の一部です。
「「四・一六」以後の党再建」を含む「武装共産党」の記事については、「武装共産党」の概要を参照ください。

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