「凍結した会議」とトレド戦争の終結
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「トレド戦争」の記事における「「凍結した会議」とトレド戦争の終結」の解説
メイソンの後任のホーナーは知事として非常に人気がないことが分かり、彼の在職期間はとても短かった。居住者らは彼を嫌っている気持ちを表し、準州政府に就任する彼に野菜を投げつけた。1835年10月の選挙で、有権者は憲法草案に賛成し、人気のあるメイソンを州知事に選出した。同じ選挙ではアイザック・クラリーがミシガンの最初の合衆国下院議員に選ばれた。しかし、紛争のために、議会は彼の信任状の受理を拒否し、代わりに選挙で選ばれない代表者として席に座らせた。11月に州立法府に選ばれた2名の合衆国上院議員、ルーシャス・ライアンとジョン・ノーヴェルもまた、さらにぞんざいに扱われ、上院のギャラリーの見物人として席に座ることを許されただけだった。 1836年6月15日、ジャクソンは、トレド・ストリップを譲渡した後にのみミシガンを州にすることを許可する法案に署名した。この譲歩と引き換えに、ミシガンはアッパー半島の西4分の3を与えられることになっていた(最東端の部分はすでに州の境界内に含まれていた)。ある部分でそのプライドのために、またある部分ではアッパー半島の辺ぴな荒れ地の見込まれていた無価値さのために、ミシガンのアナーバーで1836年9月に行われた特別議会は、この申し出を拒絶した。 時が経つにつれ、ミシガンは、民兵の高いコストのために、それ自体が深い財政危機にありほぼ破産に近い状態であることが分かった。政府は、合衆国財務省の40万ドルの剰余金がまさに各州に分配されようとしていたが、しかし準州政府に対してはないという認識によって、行動を急かされることとなった。準州政府のままのミシガンでは、その剰余金を受け取る資格はなかった。 1836年12月14日のアナーバーでの二度目の会議で、「戦争」は非公式に終結した。代表団は、議会によって示された条件を受け入れる決議を可決した。しかし、会議の招集それ自体に議論がないわけではない。それは、個人的な呼び出し、陳情、市民集会などの盛り上がりのために初めて生じた。立法府が会議への招集に同意しなかったので、会議は不法であるとある者は言った。結果として、決議は拒否され、多くのミシガン居住者はこれをあざ笑った。議会は最終的にその解決を受け入れる前に、会議の合法性を問題にした。これらの要素のために、当時の長く続いた有名な寒波によることもあって、この出来事は後に「Frostbitten Convention」として知られるようになった。 1837年1月26日、ミシガンはトレド・ストリップを手に入れられなかったものの、合衆国の26番目の州として承認された。皮肉にも、1836年大統領選挙でジャクソン大統領が民主党の同僚マーティン・ヴァン・ビューレンの選挙を請け負ったのだが、オハイオ州は、トレド戦争の間にジャクソンがオハイオ住民の指示を得ようと努力したにもかかわらず、ホイッグ党候補者のウィリアム・ハリソンに投票した。
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