「不運のエース」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 05:37 UTC 版)
前述したように、光星学院高校時代には夏の選手権青森大会決勝に3年連続で先発を任されながら、いずれも惜敗している。さらに同校は、洗平が卒業した1997年の第69回選抜高等学校野球大会で甲子園球場の全国大会初出場を果たすと、3季連続で全国大会へ出場。2019年の第101回全国高等学校野球選手権大会までに、春の選抜大会・夏の選手権本大会に通算で10回ずつ出場したほか、2011年夏および、2012年春から3季連続で決勝進出を果たしている。このような経緯から、高校球界に関する報道や特集で、光星学院高校時代の洗平を「不運のエース」と称することがある。 ちなみに、1年時(1994年)に臨んだ青森県立八戸高校との決勝では、味方の野手陣が5失策を記録したことが災いして、延長10回の末に6 - 7というスコアで惜敗。2年時(1995年)に青森山田高校と対戦した決勝では、味方打線が同点で迎えた9回裏にサヨナラ勝利への好機を逸すると、延長10回までもつれこんだ末に2 - 4で敗れた。3年時(1996年)に先発した青森県立弘前実業高校との決勝では、4点のリードを7回裏に追いつかれると、8回裏に先頭打者へ死球を与えたところで交代。当時の監督・金澤成奉に自ら降板を願い出た末の交代であったが、後続の投手が2点を奪われた末に逆転負けを喫したため、チームを甲子園球場での全国大会初出場に導けないまま卒業した。 もっとも、洗平自身は後年、「下半身の強化などを含めて、プロ(NPB)行きに必要な土台は光星(学院高校)だったから身に付けられた」と語っている。
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