「不遇の子」の復活
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「サントリーレッド」の記事における「「不遇の子」の復活」の解説
1962年(昭和37年)2月20日、創業者の鳥井は社長の座を、次男の佐治敬三に禅譲し、息を引き取る。新たに社長の座に就いた佐治は、翌1963年(昭和38年)に、社名を壽屋からサントリーに改めると共に、新たな経営方針を打ち出してゆく。打ち出した事業として、戦前に父・鳥井信治郎が当時経営難にあった横浜の日英醸造を買収するも、数年で撤退を余儀なくされたビール市場への再挑戦、そして鳥井と共に国産ウイスキー事業の立ち上げに尽力した竹鶴が、壽屋を去って後に興したニッカウヰスキーが猛追していた最中でもあり、同社の主力であるウイスキーの銘柄の拡充を中心とするものであった。その中には戦前発売されるも、不遇の子として扱われ続けた、赤札の名も存在したのである。佐治の手により、赤札はサントリーレッドと名を変えて、1964年(昭和39年)に再度市場に投入されることになった。 佐治が赤札を復活させる切っ掛けとなったのは、同年ニッカから発売され、現在まで発売され続けているウイスキー、ハイニッカの市場投入があったことが大きいとされる。
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