「『ブラウン・ドッグ』退場」
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「ブラウン・ドッグ事件」の記事における「「『ブラウン・ドッグ』退場」」の解説
下院では、彫像の警備費用について質問がなされ、これには、年間700ポンドの経費で1日6人の巡査が必要であった。1908年2月に、ロンドン大学選挙区議員サー・フィリップ・マグナス(Sir Philip Magnus)は、内務大臣ハーバード・ジョン・グラッドストーン初代グラッドストーン子爵(Herbert Gladstone, 1st Viscount Gladstone)に、「物議を醸す碑文をおびているバタシーの公共記念物の警察的保護の特別費用に注意を引かれたかどうか」("whether his attention has been called to the special expense of police protection of a public monument at Battersea that bears a controversial inscription")尋ねた。グラッドストーンは、彫像を保護するために毎日巡査6人が必要である、追加の警察活動の全体的な経費はいちにちに、警部27人、巡査部長55人、および巡査1,083人の雇用に相当していた、と答えた。 ロンドンの警察長官はバタシー評議会宛てに書き送り、彼らが経費に寄付するように頼んだ。評議員ジョン・アーチャー(John Archer)、後にバタシー市長、ロンドン最初の黒人市長は、『Daily Mail』に、バタシーがすでに警察の料金で年間22,000ポンドを支払っていたことを考えると、自分はその要求に驚いた、と語った。Canine Defense Leagueは、まんいちバタシーが研究所複数への襲撃を組織したならば、それら研究所が警備費用を自分で支払うように求められるだろうか否かを考えた。 また一部の評議員は、彫像を鋼のケージに入れ、有刺鉄線のフェンスでとり囲むことを提案した。『Times』の手紙のページその他で、ひょっとすると反生体解剖病院の敷地かもしれない所に移動させる提案が、なされた。『British Medical Journal』は1910年3月に書いた―― 願わくはわれわれは、拒否された芸術作品の最も適切な休憩場所は、バタシーのHome for Lost Dogsであることを提案するように。そこでは、碑文が言うように、ミス・ウッドワード(Miss Woodword)、ライオネル・S・ルイス師(Rev. Lionel S. Lewis)その他友人の居るところでハンマーを使って「死ぬまで行ない」("done to death")得るだろう。もし彼らが気持ちにとても耐えられないならば、おそらく麻酔薬が処方され得よう(May we suggest that the most appropriate resting place for the rejected work of art is the Home for Lost Dogs at Battersea, where it could be "done to death", as the inscription says, with a hammer in the presence of Miss Woodword, the Rev. Lionel S. Lewis, and other friends;if their feelings were too much for them, doubtless an anaesthetic could be administered.)。 バタシー評議会はだんだん論争にうんざりしてきた。1909年11月に新しい保守評議会が、彫像を撤去するといううわさの中で選出された。それを支持する抗議があったし、総勢500人のブラウン・ドッグ記念物保護委員会(Brown Dog memorial defence committee)が設立された。2万人が請願に署名したし、1910年2月に1,500人が、Lind af Hageby、シャーロット・ディスパードと自由党議員ジョージ・グリーンウッド(George Greenwood)が演説する集会に出席した。ロンドン中心部でさらに多くのデモンストレーションが、ハイド・パークで演説が、あり、支持者らはイヌの仮面を着けていた。 抗議は役に立たなかった。彫像は1910年3月10日夜明け前に、警察官120人を伴った評議会の労働者4人によって静かに撤去された。9日後に、反生体解剖者3,000人がトラファルガー広場に集まり、その帰還を要求したが、しかしそのときまでにバタシー評議会が事件に背を向けていたことは明らかであった。像は最初、ボロー・サーベイヤーの自転車小屋(borough surveyor's bicycle shed)に隠されていた、これは彼の娘が1956年に『British Medical Journal』宛てに書いた手紙による。当時は評議会の鍛冶屋が破壊し鋳(い)つぶしたと伝えられた。反生体解剖者らは、高等裁判所にその返還を要求する請願を申し立てたが、しかしこの訴えは1911年1月に却下された。
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