〈一種の空白期間〉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 02:34 UTC 版)
「ルイ・アラゴン」の記事における「〈一種の空白期間〉」の解説
アラゴンはツァラとの対立から決別に至るまで常にブルトンと行動を共にしたが、ブルトンのシュルレアリスム宣言が発刊され、アラゴンがシュルレアリスム的小説『夢の波』を発表した年でもある1924年までのダダからシュルレアリスムへの移行期を、アラゴンは「一種の空白期間」と呼んでいる。すでに処女詩集『祝火』を刊行し、耽美主義的な小説『アニセまたはパノラマ』を『新フランス評論』に発表し、次作『テレマツク冒険談』を準備していた彼は、1922年の初め頃に家族の反対を押し切って医学を断念する決意をした。医学生としてわずかながらも国家から給付金を受けていた彼は、生活の糧を絶たれ、まずは生計を立てなければならなかった。ブルトンから彼の友人で服飾デザイナーのジャック・ドゥーセ(フランス語版)に紹介された。ドゥーセは美術品蒐集家、作家の手書き原稿などの蒐集家でもあり、特に、1924年にブルトンに勧められてピカソの『アビニヨンの娘たち』を購入したことで知られるが、アラゴンは、現在、ソルボンヌ大学附属ジャック・ドゥーセ文学図書館(フランス語版)に保管されているドゥーセの蔵書に関するアドバイザーとして採用された。仕事の内容は、「アンドレ・シュアレス(フランス語版)の発想で収集された過去のコレクションを補充すること、〈同世代の詩的精神の形成〉に貢献した作品を列挙すること、イジドール・デュカス(ロートレアモン伯爵)が読んだはずの資料を提示すること」であった。アラゴンは、このとき、ドゥーセのために『現代文学史草案』を執筆し、『リテラチュール』誌に順次発表した。さらに、生活費を補充するために、ジャック・エベルト(フランス語版)のシャンゼリゼ劇場の技術監督であったルイ・ジューヴェの推薦で、同劇場の演目を週刊新聞『パリ・ジュルナル』として刊行する仕事を得た。この間、後に『テレマツク冒険談』(1922年刊行)、『放縦』(1924年)、詩集『永久運動』(1925年) に所載されることになる作品を引き続き『新フランス評論』に次々と発表した。こうして、ダダの活動において表現されたアラゴンの反逆精神は、シュルレアリスムに新たな表現を見出すことになった。
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