藤山一郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/05 07:03 UTC 版)
社会活動
前述のように、藤山は慶應義塾在籍中に福沢諭吉が説いた奉仕の精神の影響から1950年代半ばから様々な社会活動を行うようになった[101]。
ボーイスカウト
藤山は奉仕を重んじるボーイスカウトの精神に共鳴し、ボーイスカウト日本連盟の参与を務めた。1971年(昭和46年)、第13回世界ジャンボリーが日本(静岡県富士宮市)で開かれた際にはテーマソング『明るい道を』の作曲を行った。1988年(昭和63年)にスカウトソングを収録したカセットテープが制作された際には録音に立ち会い、自ら連盟歌『花は薫るよ』や、『光の路』など7曲を歌った。1992年(平成4年)、永年にわたる功績を称えられ、連盟から最高功労章である「きじ章」を贈呈された。藤山の葬儀の際には、ボーイスカウトのブレザーと、きじ章を身につけた写真が遺影に選ばれた[102]。
ロータリークラブ
1958年(昭和33年)6月、藤山はロータリークラブ(東京西ロータリークラブ)に入会した。藤山は会員として精力的に活動し、例会に欠席したことがなかった。死の前日の1993年8月19日にも杖を持ち車椅子に乗って出席を果たしている。会の運営にも熱心で、1986年から1987年まで東京西ロータリークラブの会長を務めた。『東京西ロータリークラブの歌』をはじめ、ロータリークラブにまつわる歌の作曲や会員への歌唱指導も行った[103][104]。
人物像・エピソード
- 幼少期から短気で手が早かった。この性格が原因で前述のように幼稚園を転園させられ、慶應義塾普通部時代にも3週間寄宿舎暮らしを命じられた。この時、寂しさから身につけた編み物は藤山の特技の一つとなった。しかし晩年も藤山の気性の激しさは変わらず、タクシーの運転手と喧嘩して血だらけでスタジオに入ったこともある[105]。
- 車好きとして知られ、幼少期から自動車に親しんで育った。小学校4、5年生頃には生家のモスリン問屋にあった配達用の貨物自動車の車庫入れをし、オートバイの運転もマスターした。東京音楽学校在学中に自動車の運転免許を取得。流行歌手となってからも舞台への移動の際は自ら自動車を運転することが多かった。また戦前にドイツ大使の前で歌う際には、みすぼらしいフランス車に乗っていたのを大使夫人にとがめられ、後にドイツ車を特別価格で提供されている。所有車は終戦直後に乗ったダットサンを除き、すべて輸入車であった[106]。運転マナーも良好で、優良運転者として1972年に緑十字交通栄誉賞銅賞、1982年に緑十字交通栄誉賞銀賞を受賞。一方で他人の運転マナーにも厳しく、割り込みした車を怒鳴りつけることもあった。藤山は1949年7月に肝臓膿瘍(肝臓に膿が発生する病気)を患い入院したことがあるが、この時将来に不安を覚えた藤山は、妻を社長にして「ミッキー・モータース」という洗車・整備・給油の店を副業としてオープンさせている[107][108]。
- 藤山が音大生だった時代は楽譜が貴重であり、学生は図書館から借りて写譜するのが一般的だった。そのため藤山は楽譜を乱暴に扱う者に対して非常に厳しかった[109]。
- 戦争中、南方慰問から帰国した藤山が、作曲家・山田耕筰邸へ挨拶に行くと、山田が藤山の履いている南方で入手した靴を気に入って「僕にくれよ」と藤山と押し問答になった。藤山も断りきれず山田の靴と交換することで決着した。その話を藤山から聞いた音楽評論家の森一也が「あの靴はいつか見た靴」ですねと歌うと藤山も「ああ、そうだよ」と歌い返した(コンパクトディスク「山田耕筰の遺産4 歌曲編IV」COCA-13174 のブックレット、森一也の解説より)。
歌唱論・歌手観
藤山は、日本語の発音に厳しいことで知られた。有名な逸話として、言語学者の金田一春彦は、紅白歌合戦で『蛍の光』が唄われる際に指揮者を務めた藤山が、歌い出しの部分を「アクセントに合わないフシがついている」という理由で自らは決して声を出して歌おうとしなかったことを挙げている[110](実際には東京12チャンネルの『なつかしの歌声』などの番組では歌唱している[111])。音名をイタリア式に発音する際も、「ラはlaで、レはre」だと厳密に発音を区別していた[112]。金田一は、藤山の厳しさは言葉のアクセントに厳しい作曲家本居長世[113]の家に出入りしていたことで培われたものだと推測している[110]。
藤山はプロの歌手にとって重要なのは正式に声楽を習い基本的な発声を習得し、基本に忠実でしっかりとした発声により歌詞を明瞭に歌うことであり、技巧を凝らすのはその先の話であると述べている[114][1]。
後輩歌手では、伊藤久男、近江俊郎、岡本敦郎、布施明、尾崎紀世彦、由紀さおり、芹洋子、倍賞千恵子、アイ・ジョージなどを「ただクルーンするだけでなく、シングも出来る両刀使いだから。」という理由で評価していた[115]。
シンガーソングライターの矢野顕子は、NHKの軽音楽オーディションで、藤山の丘を越えてを歌唱した。審査員の一人であった藤山は、「素晴らしいピアノにのせて思い切った表現で歌われた。これにはビックリした。弾き語りと簡単に言うけどね、できるもんじゃないですよ。」と評価した上で、「もっともっとチャレンジして、若さはチャレンジだ。ぶつかっていって新しい形をこしらえて。あれでなけりゃいけないってことは無いと思うな」などと助言した[116]。
注釈
- ^ 藤山は、はじめは近所の東華幼稚園に入園したが、腕白な振る舞いが原因で間もなく大塚の東京女子師範学校付属幼稚園に転入させられた。
- ^ この時期に藤山が師事した音楽家にはこの他、梁田貞(声楽)・大塚淳(ヴァイオリン)がいる。また作曲家、本居長世の自宅に出入りし、後に本居が設立した如月社にも参加、同社にて本居の作品を独唱した。
- ^ 慶應とつながりがあった弘田との縁がきっかけとなって、後に東京音楽大学在学中の1930年、『慶應幼稚舎の歌』『普通部の歌』の吹き込みを行っている。
- ^ 最下位は岡本太郎で、のちに岡本は藤山に対し、「増永はよく学校に出ていたくせにビリから二番、オレは殆ど出ないでビリ、実際はお前がビリだ」と言い放ったといわれている。
- ^ 作曲家、山田耕筰の自宅に出入りし、山田の自筆譜の清書もしている。
- ^ かつて佐藤千夜子が学則58条違反により退学処分を受けたことがあった。
- ^ 藤山一郎以外にも、花房俊夫・井上静雄・南一郎・藤村二郎・田垣宣文・藤井龍男などの変名を用いた。
- ^ 日光の華厳滝に身を投じた一高生にちなんで藤村操という名前も考えたが、文学青年の名前は似合わないと却下された。
- ^ 少年役は本来はボーイソプラノによって歌われる。もう一つの主役である教師役は伊藤武雄が演じた[35]。
- ^ 藤山はビクターへ復帰することも画策したが、結実しなかった。
- ^ 1940年4月14日付『読売新聞』には、グルリットのピアノで独唱者・木下保・増永丈夫・関種子・竹本光江らが歌っている写真が掲載されている。
- ^ 民謡『ブンガワンソロ』は帰国後藤山のレパートリーに加えられ、日本で流行歌となった。
- ^ 滞在中、藤山の待遇は中佐待遇に格上げされた。
- ^ 番組用に藤山は、NHKのラジオ局のスタジオで持ち歌と自らが作曲した『ラジオ体操の歌』の計24曲を録音した。
- ^ 他に非スポーツ選手が存命中に受賞した例としては女優の森光子、将棋棋士の羽生善治、囲碁棋士の井山裕太が挙げられる。
- ^ 1966年のヒット曲『星影のワルツ』(作詞:白鳥園枝、作曲:遠藤実、歌:千昌夫)とは別の曲。
- ^ 『ブンガワン・ソロ』は戦地(現地)で歌われていた民謡に自ら訳詞をつけたもので帰国後には藤山のレパートリーに加わっていた。
- ^ NHK『みんなのうた』で1968年12月から1969年1月にかけて放送された『おかあさんの顔』(作詞:やなせたかし、作曲:藤家虹二、歌:ボニージャックス)とは別の曲。
- ^ 第5回までは、紅白両軍どちらが大トリを取ったかは記録に残っていない。
- ^ この回は灰田勝彦がトリだったとする説と、藤山がトリだったとする説がある。
- ^ 丘を越えて・長崎の鐘(4回目)・青い山脈のメドレー。
- ^ 満78歳での歌手としての出場は、紅白史上最高齢記録だった。その後、2014年・第65回で美輪明宏がこの記録を更新。
- ^ 1990年・第41回-1992年・43回(それ以前も一部回を除き、蛍の光の指揮を担当した)。
出典
- ^ a b 菊池清麿. “演歌、歌謡曲と西洋音楽”. ゑれきてる「音楽の時代」特集2.日本の大衆音楽. 東芝. 2011年8月16日閲覧。
- ^ 斎藤1996、11頁。
- ^ 池井1997、12-14頁。
- ^ 私の履歴書、174頁。
- ^ 池井1997、13・15頁。
- ^ 池井1997、14-15頁。
- ^ 私の履歴書、176-177頁。
- ^ 藤山1986、24-26頁。
- ^ 池井1997、15頁。
- ^ 藤山1986、22頁。
- ^ a b “慶應義塾機関紙『三田評論「立ち読み 慶應義塾史跡めぐり 第57回』”. 慶應義塾大学出版会. 2021年8月7日閲覧。
- ^ 池井1997、22-24頁。
- ^ 藤山1986、30-32・38-39頁。
- ^ 私の履歴書、177-178・181頁。
- ^ 池井1997、28頁。
- ^ 池井1997、33-35頁。
- ^ 藤山1986、39-42頁。
- ^ 菊池1996、43-46頁。
- ^ 池井1997、36頁。
- ^ 池井1997、39-41頁。
- ^ 池井1997、44-45頁。
- ^ 『東京藝術大学百演奏会編』、115頁。
- ^ 私の履歴書、186頁。
- ^ 池井1997、49-51頁。
- ^ 藤山1986、48-54頁。
- ^ 藤山1986、55頁。
- ^ 塩沢1991、36頁。
- ^ 菊池1996、79頁-82頁。
- ^ 菊池2008、33-36頁。
- ^ 「SPレコード歌謡産業発達史」『メディア史研究14』、メディア史研究会編、2003年、91-93頁。
- ^ 池井1997、55-57頁。
- ^ 藤山1985、82頁。
- ^ 池井1997、63-69頁。
- ^ 藤山1986、57-62頁。
- ^ 乘杉嘉壽校長時代の東京音楽学校昭和3年~20年 - 東京藝術大学音楽学部紀要第34集抜刷平成21年3月、11頁。
- ^ 『東京芸術大学百年史』演奏会編 第二巻。
- ^ 『週刊音楽新聞』1933年3月26日付。
- ^ a b 池井1997、73-74頁。
- ^ 藤山1986、62-64頁。
- ^ 菊池1996、113-115頁。
- ^ 塩沢1991、39-40頁。
- ^ 池井1997、75頁。
- ^ 藤山1986、47頁。
- ^ 菊池1996、127頁。
- ^ 池井1997、72・74-75頁。
- ^ 「売上実数ヨリ見タル流行歌「レコード」の変遷ヨリ」昭和13年2月末調査
- ^ 私の履歴書、194-196頁。
- ^ 藤山1986、67頁。
- ^ 藤山1986、67~68頁。
- ^ 菊池1996、134-135頁。
- ^ 池井1997、75・81-83頁。
- ^ 藤山1986、69-71頁。
- ^ 私の履歴書、196-197頁。
- ^ 池井1997、87-94頁。
- ^ 池井1997、91頁。
- ^ 池井1997、95-97頁。
- ^ 菊池2008、57-61頁。
- ^ 上山敬三『日本の流行歌』(早川書房)、88頁。
- ^ 菊池1996、163頁。
- ^ 池井1997、102-103頁。
- ^ 『読売新聞』1939年4月28日付。
- ^ 「音楽で見る戦後史2 美しき日本の歌-ラジオ歌謡」『季刊音楽文化の創造』49号、財団法人音楽文化創造、2008年7月、36頁-37頁。
- ^ 池井1997、116頁。
- ^ 池井1997、117-118頁。
- ^ 藤山1986、104-107頁。
- ^ 藤山1986、102頁。
- ^ 池井1997、119-122頁。
- ^ 藤山1986、109-129・132頁。
- ^ 池井1997、123。
- ^ 藤山1986、133-135頁。
- ^ 池井1997、123-129頁。
- ^ 藤山1986、154-208頁。
- ^ 池井1997、130-145頁。
- ^ 私の履歴書、221-225頁。
- ^ 池井1997、147-149頁。
- ^ 菊池2008、112頁。
- ^ 藤山1986、230頁。
- ^ 池井1997、153-168頁。
- ^ 藤山1986、233-234・241-243頁。
- ^ 池井1997、190-193頁。
- ^ 池井1997、171-180頁。
- ^ 池井1997、178頁。
- ^ 藤山1986、245-246頁。
- ^ 池井1997、188-189・200-203頁。
- ^ 藤山1985、10頁。
- ^ 池井1997、204-206頁。
- ^ 池井1997、193頁。
- ^ 池井1997、206-208頁。
- ^ 池井1997、208-210頁。
- ^ 小沢2000、7頁。
- ^ “藤山一郎”. 日本コロムビア. 2011年8月6日閲覧。
- ^ 池井1997、241-242頁。
- ^ 池井1997、241-244頁。
- ^ 池井1997、239-241頁。
- ^ 藤山1986、246-247頁。
- ^ 私の履歴書、235頁。
- ^ ラジオについては同年8月22日(日曜日)にFMで12:15から14:00まで放送された。
- ^ 小沢2000、33頁。
- ^ 小沢2000、34頁。
- ^ 小沢2000、34-35頁。
- ^ 池井1997、213頁。
- ^ 池井1997、213-217頁。
- ^ 池井1997、219-213頁。
- ^ 東京西ロータリークラブのホームページ
- ^ 池井1997、33-34頁。
- ^ 池井1997、228-238頁。
- ^ 藤山1986、235-240頁。
- ^ 私の履歴書、232頁。
- ^ 池井1997、44頁。
- ^ a b 金田一1994、124頁
- ^ 蛍の光 藤山一郎 他 - YouTube
- ^ 金田一1994、125頁。
- ^ 金田一1994、119-120頁。
- ^ 私の履歴書、169-171頁。
- ^ 私の履歴書、238頁。
- ^ NHK. “矢野顕子さんの世界が詰まった『若い広場』! NHK番組発掘プロジェクト通信”. 2021年11月9日閲覧。
- ^ 愉快な仲間 NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス
- ^ 池井1997、194-200頁。
- ^ 池井1997、210-211頁・35-36頁。
藤山一郎と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- 藤山一郎のページへのリンク