1978年 - 1984年
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「米良美一」の記事における「1978年 - 1984年」の解説
地元の西都市立三財小学校に通う。子供の頃から歌が好きであったが、身長が伸びず、両腕も伸ばせない症状があった。生まれつきの難病のため、支援学校小学部へ6歳から入学。親元を離れ全寮制の寄宿舎や小児病棟に入り生活。6歳からの数年間は宮崎市の赤江まつばら支援学校に籍を置いて寄宿舎生活を送り、小学4年生の一学期終了まで在学した。寄宿舎での生活は「寂しさを紛らわす為か、風呂場で詩吟を吟じた事があって、とても上手かった。」と当時の寮母長は回顧している。寄宿舎内に現存するオルガンを弾く事を勧められたことが、後の米良自身の歌の表現力の基礎になった。特別裕福な家庭ではなく、両親は米良の入退費用がかさむため、肉体労働をして働き育てた。男性に混じって働く母の姿をからかう友人もいて、このことが米良にとってつらく感じられた。体調不良により床に臥す日々が続く時はカセットテープに録音されていた歌謡曲を聴いて過ごし、音楽に親しんだ。入院していた病院の若い看護師からプレゼントされたカセットテープに録音されたアイドル歌手・松田聖子の大ファンになり、同じ高さで歌いたくて裏声を出して一緒に歌う練習をしたことが、米良のカウンターテナーの原点となった。
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1978年 - 1984年
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「ザ・ベストテン」の記事における「1978年 - 1984年」の解説
これまでにない「ランキング形式での歌番組」という位置づけ、オリジナリティあふれる演出、中継での歌唱、黒柳と久米の掛け合いなどが人気を集め、「ベストテン」は1年足らずで常時30%近い視聴率を取る人気番組となった。山口百恵やサザンオールスターズ、ゴダイゴ、沢田研二らが積極的に番組に出演し、80年代になると、アイドル系歌手が出演することが多くなり、田原俊彦、近藤真彦、松田聖子、柏原芳恵、中森明菜、小泉今日子、河合奈保子、シブがき隊、堀ちえみらが継続的にランクインするようになった。さらに1982年から「豪華版」がスタートし、こちらも30%近い視聴率を記録した。 1978年1月26日 - 梅田コマから山口百恵が初登場。放送第2回目で初の生中継となった。 4月20日 - 「今週のスポットライト」にザ・ドリフターズが出演し、同局で放送中の人形劇『ヤンマーファミリーアワー 飛べ!孫悟空』挿入歌『ゴー・ウエスト』を披露。 9月7日 - 7位にランクインした研ナオコの「窓ガラス」のバックバンドとして、アルフィーが出演(中継)。アルフィーの初登場は5年後の1983年9月8日。 9月28日 - ドラマスペシャル『雲を翔びこせ』を放送したため休止したが、冒頭の5分間(21:00 - 21:05)を使い、ベストテンのランキングのみ発表された。 1979年3月22日 - 視聴率が35.8%を記録。 4月5日 - テレビ山口(TYS)ネット開始。オープニングにて、ネット局の紹介があった。ゴダイゴがライブ会場の福岡市民会館から「ガンダーラ」と「モンキー・マジック」を歌唱。RKB追っかけウーマンの葉山さつきとともに、TYS追っかけウーマンの米山千枝子も中継出演し、全国に向けて挨拶と曲紹介を行った。 4月5日・12日 - 西城秀樹の「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」が計算上の週間得点の最高である9999点を獲得。番組史上満点を獲得したのはこの曲のみである。 8月9日 - パリからの衛星生中継。 10月25日 - 松坂慶子が「愛の水中花」で初ランクイン。初登場の歌手がサイン帳にサインを記す、その第1号となった。 12月20日 - 放送100回を達成。登場してくる歌手から黒柳は花束を贈られた。発表されたデータでは、これまでで中継221回、リクエストはがき14万通以上。 12月27日 - 「年間ベストテン」では、通常のベストテンではベスト3に入らなかった渥美二郎と小林幸子がロングヒットにより年間ベスト3に入り(渥美は年間第3位「夢追い酒」、小林は年間第1位「おもいで酒」)、両者がスタジオで歌唱。渥美は通常のベストテンでは3週のランクイン、すべて10位であったが、8か月間ベスト30に入り、年間の高得点に繋がったことを久米が解説。第2位はサザンオールスターズの「いとしのエリー」。通常のベストテンでも7週連続1位獲得。小林は事情を知らずにスタジオ入りし、出番待機中に自らが年間第1位に入ったのを知り、涙ながらに歌った。視聴率は35%。 1980年2月14日 - 「今週のスポットライト」に『3年B組金八先生』の主題歌である海援隊の「贈る言葉」が登場するのに合わせて、3年B組の生徒役一同がスタジオに応援に駆け付けた。 3月27日 - 竹内まりやが「不思議なピーチパイ」で10位になり、コンサートを行っていた大阪のフェスティバルホールより生中継で登場した。また、竹内がベストテンランクイン1000組目となり、その際スタッフより「初登場の記念に、何か贈り物をしたい」と竹内に提案したところ、「会場においてある公衆電話に、自分の写真を飾って欲しい」と答えた。本人の写真入りの公衆電話は、初登場した日に会場に贈呈され、数年間会場に置かれ、多くの人が利用した。視聴率は36.3%。 9月25日 - 「さよならの向う側」で10位にランクされた山口百恵が最後の番組出演、「青い珊瑚礁」が第1位(2週連続)となった松田聖子と、同番組では最初で最後の共演となった。 1981年1月1日 - 特番『全国歌謡曲大調査、明治から昭和この百年!史上最大のベストテン』が放送された。本番組との関係は番組中うたわれず、番組の雰囲気も懐メロ大賞風と本番組とはかなり異なったが、通常の本番組と同じ時間帯(の拡大版)で放送され、番組の最後には翌週の本番組の予告が流れたことから、本番組のスピンオフ番組とみられる。 3月26日 - TBSと一部のネット局(北海道放送(HBC)の札幌以外の放送局や機材の未整備などで当時ステレオ放送を実施していなかった局を除く)でステレオ放送 を開始。他局では音声多重放送開始の1978年より『NTV紅白歌のベストテン』や『夜のヒットスタジオ 』などの看板音楽番組がステレオ放送に移行していたが、本番組は大変遅かった。これはTBSが、『8時だョ!全員集合』や『クイズダービー』などのバラエティ番組からステレオ化を行っていたためである。 5月21日 - 寺尾聰が、「出航 SASURAI」(初登場6位)、「シャドー・シティー」(5位)、「ルビーの指環」(1位)と3曲同時ランクインした。 6月18日 - 寺尾聰「ルビーの指環」が、それまでの番組記録だった世良公則&ツイスト「銃爪」が記録した10週連続1位を更新する11週連続1位を達成。記念としてルビー色のソファーがプレゼントされ、寺尾だけの指定席としてスタジオに設置された他、歌と当週出演者のお祝いメッセージを収録したゴールドディスクが作成された。記録は12週連続となる翌週まで続いた。 9月17日 - 最高視聴率41.9%(ビデオリサーチ調べ・関東地区)を記録。久米宏が休養明けで司会に復帰したこの週の1位はイモ欽トリオの「ハイスクールララバイ」。また、この週に3位だった田原俊彦「悲しみ2(TOO)ヤング」が、2位の松田聖子「白いパラソル」と相合傘をする演出があった。 12月3日 - 200回記念をパーティー形式で行い、これまでにランク入りした歌手とこの日中継があった北陸放送(MRO)の八田静輔を除く全ネット局の追っかけマン・追っかけウーマンが集合。前年に引退した山口百恵から祝電が届く一幕、さらに前述した200回記念のアルバムがGスタジオに来た追っかけマン・追っかけウーマンに一冊ずつ授与されるシーンもあった。 1982年1月21日 - 視聴率が36.5%を記録。 6月17日 - 第9位にランクインした細川たかし(「北酒場」)が2000組目歌手となる。記念として細川の故郷・真狩村から搬送したカラマツの原木を加工し、札幌市内にベンチとして贈呈することを発表した。細川が札幌市内のクラブでショーを行っていたため、札幌市旭山記念公園からの中継(追っかけマンはHBC・田中徳志郎アナ)。視聴率30.1%を記録。 10月7日 - 放送時間が21:00 - 21:54に変更(直後の天気予報枠の1分拡大に伴う)。 12月30日 - 「さよなら1982 ザ・ベストテン豪華版」を3時間に渡って生放送。その後年末の恒例となる。今週のベストテンの発表の他、視聴者からのリクエストによる出演歌手全員参加の「年忘れリクエスト企画」、1年間の番組を振り返る総集編「思い出の名迷場面集」、そして1年間にベストテンにランクインした曲の中から、総得点の高い100曲を発表する「年間ベストテン」を発表。特に上位10位内にランク入りした歌手には、歌手にゆかりの深い有名人や著名人がお祝いのゲストとして出演した。視聴率は28.2%。 1983年4月7日 - 「ザ・ベストテンフェスティバル」を19:30~21:54に放送。その週のベストテンはアバンタイトルとして冒頭に順位だけ発表した後、オープニングが流された。 11月10日 - 放送300回記念「ザ・ベストテンin長崎」中継を含めると8組の歌手が出演し、そのうち4組が特設ステージで歌を披露した。この週は杏里の「CAT'S EYE」がテレビアニメの主題歌として初めての1位となった週でもある。視聴率は29.9%。 12月8日 - 9月29日を持って放送を打ち切った福島テレビ(FTV)に代わり、12月4日に開局したテレビユー福島(TUF)がネット開始。開局を記念して、冒頭で開局の瞬間の映像を、また小柳ルミ子が「今週のスポットライト」としてTUF本社前から「お久しぶりね」を披露した。 12月29日 - 「さよなら1983 ザ・ベストテン豪華版」を放送。系列外で裏送りで中継を担当していた南海放送(RNB、日本テレビ系列)でも放送された。視聴率は番組史上2番目に高い39.7%を記録。 1984年5月17日 - 6月7日(4週連続) - チェッカーズが、「哀しくてジェラシー」、「ギザギザハートの子守唄」、「涙のリクエスト」と3曲同時ランクイン。1981年5月21日の寺尾聰以来3年ぶりの記録(寺尾は1週のみ)。 8月23日 - ミュンヘンからの衛星生中継。 10月18日 - 「秋のザ・ベスト展」と題してランクインした歌手による芸術作品が披露された。 10月25日 - 「350回記念 ザ・ベストテンin岡山」を県営プールから生放送。視聴率は22.9%。 12月27日 - 「さよなら1984 ザ・ベストテン豪華版」を放送。視聴率は34.4%。
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