夜のヒットスタジオ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/14 08:51 UTC 版)
『夜のヒットスタジオ』(よるのヒットスタジオ)は、1968年11月から1990年10月まで22年に亘りフジテレビ系列(FNS)で放送された音楽番組のシリーズである。通称で『夜ヒット』『ヒットスタジオ』とも呼ばれた。
- 1 夜のヒットスタジオとは
- 2 夜のヒットスタジオの概要
夜のヒットスタジオ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 08:05 UTC 版)
1974年4月1日から1975年3月31日までフジテレビ系の歌謡番組『夜のヒットスタジオ』の2代目司会者として、芳村真理、三波伸介と3人で司会を担当(しかし、前任者の前田武彦が1973年9月に降板するとともに芳村も半年間休演し、その間ゲスト出演者が輪番で担当していたため実際は間に半年のブランクがある)。当時のスタッフによると「お嬢様育ちらしい天然ボケで、スタジオをなごませてくれた」という。 しかし、司会に就任した初回は体調不良のためスタジオには来れず、電話で出演。1974年7月以降も、舞台の長期公演が決まり度々番組出演を見合わせるようになった。朝丘がいない回は三波が朝丘の代役を務め、1975年3月の降板まではスケジュールが空いている場合などに断続的に出演。降板後もゲスト歌手の客演や対面ゲストとして出演した。 フジテレビはレギュラー司会者ではなく「ゲスト」司会者としており、『夜ヒット』の「○周年記念」「○百回記念」など節目の回で歴代司会者が集うときも司会者の一人として登場せず、1990年10月の最終回や1988年2月の1000回記念も歴代司会者に記されなかった。近年、フジテレビ側の記録に間違いがあったことが現存するVTR、スチール、当時の視聴者の証言から判明(1クールのみ担当ののちゲスト司会と誤記/1年間の司会が正当)。これが正式な歴代司会者扱いされなかったことの理由のひとつに挙げられる。 なお、1000回放送で降板した芳村真理の勇退記念本 で、前田武彦・井上順・古舘伊知郎(三波は1982年12月に死去)と並んで歴代司会者の一人として番組の想い出や芳村へメッセージを語っている。 2年以上務め、その時代の『夜ヒット』の顔でもあった前田・三波・井上・古館とは対照的に、朝丘はわずか1年で降板したことで同年齢の芳村との確執も喧伝されたが、後年、明確に否定しており、1960年代半ばの頃から芳村が朝丘の歌謡ショーを司会するなど長年の親交がある。当時は毎回の放送前に互いの服装を相談し、雰囲気が重ならない衣装を選択していた。
※この「夜のヒットスタジオ」の解説は、「朝丘雪路」の解説の一部です。
「夜のヒットスタジオ」を含む「朝丘雪路」の記事については、「朝丘雪路」の概要を参照ください。
夜のヒットスタジオ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 01:46 UTC 版)
1970年代後半 - 1980年代前半にかけては、原則として3人のうち最低でも誰か1人が毎週『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)にゲスト出演した。 この3人の中でもっとも出演回数が多いのは西城の188回(これは五木ひろしの222回、森進一の204回に続き歴代出演歌手全体を通じても3位に位置する多さである)で、次いで郷が175回であり、最も早く初出演した野口は123回となっている。 最多マンスリー歌手は郷の3回になっている。
※この「夜のヒットスタジオ」の解説は、「新御三家」の解説の一部です。
「夜のヒットスタジオ」を含む「新御三家」の記事については、「新御三家」の概要を参照ください。
夜のヒットスタジオ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 10:42 UTC 版)
1972年、「小さな体験」で初出演したフジテレビ系『夜のヒットスタジオ』は、ジャニーズ事務所に当時存在していた「アイドルを夜の番組にはあまり出演させたくない」との方針から新御三家の中では出演機会が少なかったが、バーニングプロダクション移籍後は原則として月1回のペースで出演するようになる。1982年、ランキング番組出演辞退の後もトリをつとめたり、過激かつ派手な演出を用意されるなど厚遇を受けた。1972年から1990年6月27日までの総出演回数は175回。
※この「夜のヒットスタジオ」の解説は、「郷ひろみ」の解説の一部です。
「夜のヒットスタジオ」を含む「郷ひろみ」の記事については、「郷ひろみ」の概要を参照ください。
夜のヒットスタジオ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 00:39 UTC 版)
フジテレビ系『夜のヒットスタジオ』への初出演は1972年12月4日(第214回)。3枚目のシングル『チャンスは一度』での出演であった。1974年以降、準レギュラー格としてほぼ1月に1、2回のハイペースで出演を重ね、五木ひろし・森進一に次いで歴代3位の190回にわたり同番組に登場。「ミスター夜ヒット」の代表格の一人として様々なエピソード、見せ場を提供した。
※この「夜のヒットスタジオ」の解説は、「西城秀樹」の解説の一部です。
「夜のヒットスタジオ」を含む「西城秀樹」の記事については、「西城秀樹」の概要を参照ください。
夜のヒットスタジオ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 07:13 UTC 版)
前田武彦と共に『夜のヒットスタジオ』の初代司会に抜擢された理由は、番組がスタートする約1年前に放送されたニッポン放送のラジオ番組「男性対女性」のなかで展開された二人のやり取りを気に入った構成作家の塚田茂が、番組の初代プロデューサー・伊藤昭に推薦したためである。しかし、芳村も前田も大のジャズファンではあるものの歌謡曲に対する造詣は皆無に等しく、「歌謡番組の司会者」としてオファーをかけても断られるのが関の山だろうと考えた伊藤は、あえて「ジャズ番組の司会者」と偽って、「夜ヒット」への出演を依頼。「大好きなジャズをたくさん聞けるのなら」と芳村は二つ返事で仕事を引き受けたが、いざ初回のリハーサルに参加するや、当日出演するゲストの顔ぶれが歌謡曲の分野で活躍する歌手ばかりで「(伊藤に)騙された」と酷く落胆し、一度はすぐにでも番組降板を申し出ようとも考えていたと、芳村は自著で回顧している。 『夜ヒット』などの生放送の番組を務める時には必ずといっていいほど、台本(または進行表やメモ書き)を携帯するスタイルを採っていた。 『夜ヒット』での共演が縁で1987年には夫と共に古舘伊知郎の結婚式の仲人を務めている。婚約会見のとき、すでに古舘の妻は一人目の子供を身ごもっており、腹部が膨らんでいることを記者が質問した際、芳村は「こういう形のドレスなんです」と述べ夫人を庇った。 古舘の司会初回の際、相当の緊張状態に達していた古舘をフォローするため、芳村は「時間が経てば終わるのよ」という言葉をかけた。古舘はこの言葉をかけられて、自然と気が楽になったと述べている。 光GENJIが番組初出演の挨拶をしに芳村の楽屋を訪れた際、「ちわーす。」という軽い挨拶だけで楽屋を後にしてしまったという。彼ら以外にも、担当末期の頃になると、これまでの芸能界・テレビ界のルールや仕来りに捉われないスタンスで周囲に振舞う歌手やスタッフが増えてきており、彼らの自由な立ち居振舞いを通じて「もうここには私の居場所はない」と若い歌手・スタッフとのジェネレーションギャップを強く痛感。このことが、番組を勇退する決意を固めた最大の要因であったとされる。 番組司会当時、その日のゲスト歌手に声をかけて、本番終了後に食事をご馳走することも多かったという。特に複数回にわたって、芳村の行きつけのワインバーで酒席を共にしたという西城秀樹や未唯(元ピンク・レディー)は、バーでの芳村の立ち振る舞いから「本当の意味での大人の社交術を(芳村から)教わった」と後年、感謝の念を述べている[出典無効]。 当日の本番で身に付ける衣装のコーディネートに困っている女性歌手などには、頻繁にアドバイスを送ったり、特別にスタイリストを買って出ることもあったという。1987年9月9日放送では、同月のマンスリーゲストであった八代亜紀とのコラボレーション企画として、芳村による衣装コーディネート企画が正式な番組イベントの一環として組まれたこともある。 上記の八代、西城、未唯のほか、番組担当当時には梓みちよ、アン・ルイス、小柳ルミ子、高田みづえ、田原俊彦、近藤真彦、中森明菜、郷ひろみ、石野真子、布施明、薬丸裕英(元シブがき隊)らとも親しい関係にあった。特に高田に関しては、彼女の結婚披露宴の際に新婦側の来賓として祝辞を行っているほか、芳村が番組を勇退した際には、夫の若嶋津(現・二所ノ関親方)と共に彼女に花束を渡すために、芸能界引退以来約3年ぶりに公の場に登場するなど殊に深い親交を持っていた。
※この「夜のヒットスタジオ」の解説は、「芳村真理」の解説の一部です。
「夜のヒットスタジオ」を含む「芳村真理」の記事については、「芳村真理」の概要を参照ください。
夜のヒットスタジオ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 07:45 UTC 版)
番組リニューアル直後の1985年4月17日放送に「一気!」で初登場。以来、1989年にかけて、20回以上にわたり番組に出演し、さまざまな話題を提供した。石橋・木梨ともに『ベストテン』と同様に『夜ヒット』に対しても相当の思い入れがあり、「みなさんのおかげでした」など自身の番組ではこの番組に関連したエピソードをよく紹介している。 コーナーのひとつであるオープニングメドレーではヒッピー風、羽織袴姿などといった怒髪天な衣装で登場し、次に登場する歌手の持ち歌をあえて音程を全て外して歌ったり、DJ風のアナウンスで次の歌手の紹介を行うなどの振舞いを行っていた。 オープニングメドレー終了後に行われる季節の風物詩を紹介するセクションで、価格にしてウン十万ともウン百万とも言われる高級胡蝶蘭を紹介した際、木梨がいきなりこの花びらを食べてしまい、司会の芳村真理に真剣に注意されたことがある(当時、この番組で使う植物の大半は、芳村のコネクションを活用して提供されていたと伝えられている)。また同様にカブトムシを紹介した際にはそのカブトムシを生で木梨が食べようとしたところ、口にハサミの部分が挟まってしまい、唇から出血したこともある。 疋田拓プロデューサー時代はよく彼の言動に関連した小ネタ(「今日は疋田ちゃん、○○なんだよ〜」(例:「時間が押しちゃってて不機嫌なんだよ〜」など)を披露していた。 番組を見ていた美空ひばりから放送終了後2人に電話がかかってきて、深夜であるにもかかわらずひばりの自宅に呼び出され、番組内での行き過ぎたパフォーマンスなどに対して説教を受けたことがある。 「オールナイトフジ」同様のカメラいじりパフォーマンスを画策したものの、プロデューサーの疋田拓の持つあまりの威圧感に萎縮してしまい、カメラ転倒パフォーマンスを行うことはできず、石橋がカメラに近づき、木梨が「危ねえぞ!」と注意するに留まっている。 1986年6月、「やぶさかでない」での出演時に、歌が佳境に差し掛かった辺りで意図的な演出として、共演していた大勢の女性バックダンサーに一斉に襲いかかられ、石橋はズボンを脱がされ、下半身はブリーフパンツ一枚という姿になり、その姿のままスタジオを走り回って歌を締めくくるという「オチ」が付いた。これには、視聴者から賛否両論の意見があったようで、番組史上に残る「迷」シーンの一つとして後年の総集編でも定番ネタとなっていた。 1987年3月、「嵐のマッチョマン」で初の番組トリで歌を披露。この際、郷ひろみら他の出演者が途中から歌に参加して、一気にヒートアップし、賑やかに番組を締めくくった。 1987年10月、マンスリーゲストとして出演していた久保田利伸に五木ひろしが後ろから何度も蹴りを入れているのを見兼ねた石橋・木梨の二人は、久保田をかばってすかさず仲裁に入り、事態は収束した。久保田はこの一件以降、とんねるずの二人に対し深い恩義を感じ、親交を持つようになった。 1987年12月、つのだ☆ひろの作品「メリー・ジェーン」をそのままもじった「ジャニー・ジェーン」なる歌を披露。この際、サプライズゲストとしてつのだ本人が階段から「メリー・ジェーン」を歌いながら登場した。 1989年5月17日、「律子に乾杯~スピーチの代わりに~」の3番目の歌詞を歌唱中に番組前半(21時台)部分の提供クレジットが被ってしまい、フルコーラスで歌えないままCMに行ってしまうハプニングが起きた。しかし、これはとんねるずが画策したドッキリ的パフォーマンスであり、本来は2コーラスの演奏のみであった。このドッキリはとんねるず2人とプロデューサーの渡邉光男しか知らなかった。CM明けでとんねるずがネタバラシをしたが、事前にそれを知らなかった司会の古舘伊知郎と柴俊夫は大いに困惑し、古舘に至っては歌えなくなってしまったことに責任を感じ激怒した。この回においては、『仮面ノリダー』で共演していた小林昭二とチビノリダーの伊藤淳史が応援ゲストとして駆けつけた。
※この「夜のヒットスタジオ」の解説は、「とんねるず」の解説の一部です。
「夜のヒットスタジオ」を含む「とんねるず」の記事については、「とんねるず」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- 夜のヒットスタジオのページへのリンク