かいえん‐たい〔カイヱン‐〕【海援隊】
海援隊
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海援隊(かいえんたい)は、江戸時代後期の幕末に、土佐藩脱藩の浪士である坂本龍馬が中心となり結成した組織である。1867年(慶応3年)から1868年(慶応4年)までの間、私設海軍・貿易など、薩摩藩などからの資金援助も受け、近代的な株式会社に類似した組織、物資の運搬や貿易の仲介など[1]商社活動としても評価されている。運輸、開拓、本藩の応援、射利、投機、教育(修行科目 政法・火技・航海・汽機・語学等)等、隊の自活運営、政治・商事活動をおこなった。出版も手掛け和英通韻伊呂波便覧、閑愁録、藩論などがある。中岡慎太郎が隊長となった陸援隊と併せて翔天隊と呼ばれる。
注釈
出典
- ^ “【総合商社の歴史】坂本龍馬から始まった?就活に役立つ総合商社の歴史を解説”. unistyle (2021年2月25日). 2021年9月14日閲覧。
- ^ a b 亀山社中とは - 長崎市亀山社中記念館
- ^ a b c 一坂太郎 2013, pp. 171–172.
- ^ 町田明広 2019, p. 146.
- ^ a b 一坂太郎 2013, pp. 176–178.
- ^ “龍馬と亀山社中、関係薄い? 船中八策は虚構の可能性”. 朝日新聞. (2018年2月26日) 2021年11月29日閲覧。
- ^ a b 一坂太郎 2013, pp. 179–181.
- ^ a b 町田明広 2019, pp. 147–148.
- ^ 町田明広 2019, pp. 150–151.
- ^ 町田明広 2019, pp. 152–153.
- ^ a b c 町田明広 2019, pp. 156–158.
- ^ a b 町田明広 2019, pp. 159–161.
- ^ 町田明広 2019, pp. 162–165.
- ^ a b 町田明広 2019, pp. 201–202.
- ^ a b c 町田明広 2019, pp. 206–208.
海援隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 05:55 UTC 版)
先に帆船ワイルウェフ号を喪失し、ユニオン号も戦時の長州藩へ引き渡すことになり、亀山社中には船がなくなってしまった。慶応2年(1866年)7月28日付の三吉慎蔵宛の手紙で龍馬は「水夫たちに暇を出したが、大方は離れようとしない」と窮状を伝えている。このため、薩摩藩は10月にワイルウェフ号の代船として帆船「大極丸」を亀山社中に供与した。 将軍・家茂の死後、将軍後見職・一橋慶喜の第15代将軍就任が衆望されたが、慶喜は将軍職に就くことを望まず、まずは徳川宗家の家督のみを継承していた。8月末頃、龍馬は長崎に来ていた越前藩士・下山尚に政権奉還策を説き松平春嶽に伝えるよう頼んだ。龍馬が政権奉還論を述べた最初の記録だが、政権奉還論自体は龍馬の創意ではなく、幕臣・大久保一翁がかねてから論じていたことで、龍馬と下山の会見以前の8月14日には春嶽当人が慶喜に提案して拒否されていた。 尊攘派の土佐勤王党を弾圧粛清した土佐藩だが、この頃には時勢の変化を察して軍備強化を急いでおり、参政・後藤象二郎を責任者として長崎で武器弾薬の購入を盛んに行っていた。航海と通商の専門技術があり、薩長とも関係の深い龍馬に注目した土佐藩は11月頃から溝淵広之丞を介して龍馬と接触を取り、翌慶応3年(1867年)1月13日に龍馬と後藤が会談した(清風亭会談)。この結果、土佐藩は龍馬らの脱藩を赦免し、亀山社中を土佐藩の外郭団体的な組織とすることが決まり、これを機として4月上旬頃に亀山社中は「海援隊」と改称した。 海援隊規約によると、隊の主要目的は土佐藩の援助を受けて土佐藩士や藩の脱藩者、海外事業に志を持つ者を引き受け、運輸、交易、開拓、投機や土佐藩を助けることなどとされ、海軍と会社を兼ねたような組織だった。隊士は土佐藩士(千屋寅之助、沢村惣之丞、高松太郎、安岡金馬、新宮馬之助、長岡謙吉、石田英吉、中島作太郎)および他藩出身者(紀州藩の陸奥陽之助、越後長岡藩の白峰駿馬)など16 - 28人、水夫を加えて約50人からなっていた。同時期、中岡慎太郎は陸援隊を結成している。 海援隊結成からほどなく「いろは丸沈没事件」が発生した。4月23日晩、大洲藩籍で海援隊が運用する(一航海500両で契約)蒸気船「いろは丸」が瀬戸内海中部の備後国鞆の浦沖で紀州藩船「明光丸」と衝突し、「明光丸」が遥かに大型であったために「いろは丸」は大きく損傷して沈没してしまった。龍馬は万国公法をもとに紀州藩側の過失を厳しく追及。さらには「船を沈めたその償いは金を取らずに国を取る」の歌詞入り流行歌を流行らせるなどして紀州藩を批判した。後藤ら土佐藩も支援した結果、薩摩藩士・五代友厚の調停によって、5月に紀州藩は「いろは丸」が積んでいたと龍馬側が主張したミニエー銃400丁など銃火器35,630両や金塊や陶器などの品47,896両198文の賠償金83,526両198文の支払に同意した。その後減額して70,000両になった。 海運通商活動以外に龍馬は蝦夷地の開拓も構想しており、後年、妻のお龍も「私も行くつもりで、北海道の言葉の稽古をしていました」と回顧している。一方で、海援隊の経済状態は苦しく、開成館長崎商会主任の岩崎弥太郎(三菱財閥創業者)は度々金の無心にくる海援隊士を日記に「厄介もの」と書き残している。
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