海援隊とは? わかりやすく解説

かいえん‐たい〔カイヱン‐〕【海援隊】


海援隊


海援隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/27 05:32 UTC 版)

海援隊(かいえんたい)は、江戸時代後期の幕末に、土佐藩脱藩の浪士である坂本龍馬が中心となり結成した組織である。1867年慶応3年)から1868年(慶応4年)までの間、私設海軍・貿易など、薩摩藩などからの資金援助も受け、近代的な株式会社に類似した組織、物資の運搬や貿易の仲介など[1]商社活動としても評価されている。運輸、開拓、本藩の応援、射利、投機、教育(修行科目 政法・火技・航海・汽機・語学等)等、隊の自活運営、政治・商事活動をおこなった。出版も手掛け和英通韻伊呂波便覧、閑愁録、藩論などがある。中岡慎太郎が隊長となった陸援隊と併せて翔天隊と呼ばれる。


注釈

  1. ^ 一坂太郎によると、この時期の「亀山社中」を中心になって運営していたのは近藤や高松であり、龍馬は姉・乙女に宛てた慶応元年9月9日付の手紙で、二十人ばかりの同志を連れて長崎の方で「稽古方つかまつり候」と記す程度で、運営の内実も掌握していなかったのではないかという[5]
  2. ^ a b 亀山社中が海援隊と変わる以前に死亡しているため、厳密には海援隊の隊士ではない。

出典

  1. ^ 【総合商社の歴史】坂本龍馬から始まった?就活に役立つ総合商社の歴史を解説”. unistyle (2021年2月25日). 2021年9月14日閲覧。
  2. ^ a b 亀山社中とは - 長崎市亀山社中記念館
  3. ^ a b c 一坂太郎 2013, pp. 171–172.
  4. ^ 町田明広 2019, p. 146.
  5. ^ a b 一坂太郎 2013, pp. 176–178.
  6. ^ “龍馬と亀山社中、関係薄い? 船中八策は虚構の可能性”. 朝日新聞. (2018年2月26日). https://www.asahi.com/articles/ASL2P4SDXL2PULZU00K.html 2021年11月29日閲覧。 
  7. ^ a b 一坂太郎 2013, pp. 179–181.
  8. ^ a b 町田明広 2019, pp. 147–148.
  9. ^ 町田明広 2019, pp. 150–151.
  10. ^ 町田明広 2019, pp. 152–153.
  11. ^ a b c 町田明広 2019, pp. 156–158.
  12. ^ a b 町田明広 2019, pp. 159–161.
  13. ^ 町田明広 2019, pp. 162–165.
  14. ^ a b 町田明広 2019, pp. 201–202.
  15. ^ a b c 町田明広 2019, pp. 206–208.


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海援隊

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坂本龍馬」の記事における「海援隊」の解説

先に帆船ワイルウェフ号を喪失しユニオン号戦時長州藩引き渡すことになり、亀山社中には船がなくなってしまった。慶応2年1866年7月28日付の三吉慎蔵の手紙で龍馬は「水夫たちに暇を出したが、大方は離れようとしない」と窮状伝えている。このため薩摩藩10月にワイルウェフ号の代船として帆船「大極丸」を亀山社中供与した。 将軍・家茂の死後将軍後見職一橋慶喜第15代将軍就任衆望されたが、慶喜将軍職に就くことを望まず、まずは徳川宗家家督のみを継承していた。8月末頃、龍馬長崎来ていた越前藩士・下山尚に政権奉還策を説き松平春嶽伝えるよう頼んだ龍馬政権奉還論を述べた最初の記録だが、政権奉還自体龍馬創意ではなく幕臣大久保一翁かねてから論じていたことで、龍馬下山会見以前8月14日には春嶽当人慶喜提案して拒否されていた。 尊攘派土佐勤王党弾圧粛清した土佐藩だが、この頃には時勢変化察して軍備強化急いでおり、参政後藤象二郎責任者として長崎武器弾薬購入盛んに行っていた。航海通商専門技術があり、薩長とも関係の深い龍馬注目した土佐藩11月頃から溝淵広之丞を介して龍馬接触取り、翌慶応3年1867年1月13日龍馬後藤会談した清風亭会談)。この結果土佐藩龍馬らの脱藩赦免し亀山社中土佐藩外郭団体的な組織とすることが決まり、これを機として4月上旬頃に亀山社中は「海援隊」と改称した。 海援隊規約によると、隊の主要目的土佐藩援助受けて土佐藩士や藩の脱藩者海外事業志を持つ者を引き受け運輸交易開拓投機土佐藩助けることなどとされ、海軍会社兼ねたような組織だった。隊士土佐藩士千屋寅之助沢村惣之丞高松太郎安岡金馬、新宮馬之助長岡謙吉石田英吉中島作太郎)および他藩出身者紀州藩陸奥陽之助越後長岡藩白峰駿馬)など16 - 28人、水夫加えて50人からなっていた。同時期、中岡慎太郎陸援隊結成している。 海援隊結成からほどなくいろは丸沈没事件」が発生した4月23日晩、大洲藩籍で海援隊が運用する(一航海500両で契約蒸気船いろは丸」が瀬戸内海中部備後国鞆の浦沖で紀州藩船「明光丸」と衝突し、「明光丸」が遥かに大型であったために「いろは丸」は大きく損傷して沈没してしまった。龍馬万国公法をもとに紀州藩側の過失厳しく追及さらには「船を沈めたその償いは金を取らずに国を取る」の歌詞入り流行歌流行らせるなどして紀州藩批判した後藤土佐藩支援した結果薩摩藩士・五代友厚調停によって、5月紀州藩は「いろは丸」が積んでいたと龍馬側が主張したミニエー銃400丁など銃火器35,630両や金塊陶器などの品47,896198文の賠償金83,526両198文の支払同意したその後減額して70,000になった海運通商活動以外に龍馬蝦夷地開拓構想しており、後年、妻のお龍も「私も行くつもりで、北海道言葉稽古をしていました」と回顧している。一方で、海援隊の経済状態苦しく開成館長崎商会主任岩崎弥太郎三菱財閥創業者)は度々金の無心にくる海援隊士日記に「厄介もの」と書き残している。

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「海援隊」を含む「坂本龍馬」の記事については、「坂本龍馬」の概要を参照ください。

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