みつびし‐ざいばつ【三×菱財閥】
三菱財閥
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/24 05:21 UTC 版)
三菱財閥(みつびしざいばつ)は、かつて存在した日本の財閥である。現在の三菱グループ。
- ^ a b c d 三菱財閥(読み)みつびしざいばつ コトバンク
- ^ 日本郵船の歴史 第一章 欧米列強の支配から日本の海を守るドラマはひとりの男の決意から始まった 日本郵船
- ^ 「大熊退治と海坊主退治」風刺画
- ^ 過度経済力集中排除法等を廃止する法律(昭和30年法律第87号)、被改正法令一覧 - 国立国会図書館、日本法令索引。
- 1 三菱財閥とは
- 2 三菱財閥の概要
- 3 経歴
- 4 三菱財閥歴代総帥
三菱財閥
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 06:13 UTC 版)
三菱財閥は以前から寄付行為を行っていたのだが、1932年頃に財閥転向によってより大規模に寄付を行うようになった。すると寄付の申請件数が増大したので、寄付申請を審議するための組織を設置する必要に迫られて、「寄付委員会」を設立した。そして三井には及ばないが、軍事関係や教育事業に寄付を行った。 既に、1927年に三菱信託を設立した時に三菱と岩崎家は27万株だけを持ち、残りの33万株を縁故募集し、1929年3月に三菱銀行を倍額増資した時に新株50万株のうち23万5千株を縁故募集して、プレミアム総額587万5千円を得ていた。1934年3月には「三菱精神綱領」を発表し、利益独占を避けて三菱を大衆化すると宣言した。 1934年7月に一般公衆に三菱重工の株式を公開・売出した。合計40万株を売出し、その内の25万株を一株65円(50円払込済み)で公募したところ、4万5千人以上が応募した。これによって獲得したプレミアム600万円を教育研究基金や社会事業に寄付した。これにより三菱合資の持株比率が90%から58.8%に低下したが、過半数は維持した。一般公衆を対象にしたのはこの一社だけであり、他のケースでは縁故者に限定した。また、三菱合資を関連会社の経営から外して、ホールディング・カンパニーにしただけでなく、岩崎一族を関連会社の経営から外した。1937年12月に財閥本社である三菱合資を株式会社三菱社に改組し、1940年に2.4億円に倍額増資すると、三菱系企業の大株主と社員・功労者の2万人に限定して増資新株を公開した。この結果、岩崎同族の出資比率が50%になった。1943年には三菱社を三菱本社に改称した。三菱電機と三菱倉庫も増資して株式公開した。
※この「三菱財閥」の解説は、「財閥転向」の解説の一部です。
「三菱財閥」を含む「財閥転向」の記事については、「財閥転向」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- 三菱財閥のページへのリンク