歌手となるとは? わかりやすく解説

歌手となる

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 04:23 UTC 版)

春日八郎」の記事における「歌手となる」の解説

父・鬼佐久農業を母・キヨ任せて蕎麦打ち行商をやり、キヨ小学校で週2、3裁縫教え、夜は賃仕事仕立物に精出して家計助けていた。父は尺八を、母は三味線を嗜んでいた。父は蕎麦打ち名人で、母は当地花嫁衣装一手に引き受けるほどの和裁名手でもあった。春日には妹二人のほかに「ほとんど記憶にない」異母兄姉6人、異父兄姉が4人いた。 1930年八幡村八幡尋常小学校入学するが、この時期は「歌のうの字も知らない」状態で、人からうまといってほめてもらった記憶もなかった。この頃時折来る旅芸人少年たち憧れ太神楽一座に入ることを夢見るが、母の反対にあって断念尋常小学校時代機械作り好きな理系少年で、本人曰く「そのころでは、ごくありきたり腕白坊主であったが、当時校友によると「大変な腕白であった1937年旧制福島県立会中学校入学し片道1時間をかけての汽車通中にエクボの目立つ少年として女学生たち注目の的となる。在学中に町で見た愛染かつら』の主題歌旅の夜風』が「えらく流行っている」のを知りラジオでも聞き覚えて口ずさんだところ、父に叱責されるが、懲りずに学校広めて仲間と大合唱。しかし、歌に関してそれ以外は「相変わらずこれといった話題もない」ままに過ぎ去る秋に狭心症悪化により父が死去春日曰く、父・鬼佐久は「そりゃ、もう実に、名前のように厳格でこわい人」で、残るのは叱責され記憶ばかりであった1939年3月稼ぎ手一人となった家計負担を減らすため旧制会津中学中退し母の心づくしの10円札2枚を手に上京6月にすでに貴重品であったおはぎを奢られに友人宅に徒歩で向かう途中浅草六区初め通り常磐座でクラシックの正統派藤山一郎ステージ見ておはぎの味も記憶残らないほどの衝撃を受け、音楽身を立てようと思い決める。少年時代田舎廻り旅芸人への憧れ初め見た歌謡ショー目を覚まし歌手になること以外に我が進むべき道はないと決めてしまった。この歌謡ショー出演者藤山のほか、ハットボンボンズ、田谷力三笠置シヅ子等、指揮服部良一という顔触れであった。このショーから受けた感動加え多くの人を集め魅了する存在になることが「今の貧しさから抜け出す近道だ」と考えたのもあった。早速受けた東洋音楽学校試験にも合格し、兄夫婦反対押し切って器楽科入学器楽科選択したのは音楽教師免状がとりやすいと聞き、「先生資格があれば、将来、生活の安定たやすい」と考えたためだが、ほどなく声楽科に移る。学ぶうちに歌の魅力取り憑かれ始めるが、学徒徴用令により、暮からは三鷹中島航空機製作所通いの身となる。流行歌歌い方を身につけるべく、東京声専音楽学校転校転入に際して受けた試験では、「いい声してますね、渡部くん」と褒められムーラン・ルージュ新宿座初舞台を踏むが、洋楽敵性音楽として禁じられ僅かに歌えるのは軍歌ばかりの状況が続く。 秋頃にはかねてから恐れていた召集令状がついに届き卒業後は会津若松陸軍29連隊入隊半年訓練の後に広島移動し宇品港からフィリピンへと向かう途中で座礁台湾足止めとなり、その地で敗戦迎える。 1945年11月復員すると、終戦後1946年春に一旦帰郷して会津運送会社当座の職を得るが、10月半ばに「何をするにも、やっぱり東京だ」との思い駆り立てられ再上京その後ムーラン・ルージュ新宿座戻り渡部勇助の名で本格的に歌手活動開始1947年7月キングレコード第1回歌謡コンクール応募し細川潤一作曲の『涙の責任』を歌う。2000人を越す応募者の中から男性としては2人のみの合格者入り、準専属歌手となる。「澄んだ美し高音」に注目したキング専属作曲家である細川指導買って出レッスン室に通う日々が続く。歌川俊の名で準専属歌手となり、これを機にムーラン・ルージュ退団。準専属歌手無給待遇であったため、新人の登竜門といわれた新宿聚楽への月に2、3度の出演以外で収入の道はなく、衣食にも事欠く暮しが続く。少しでも早く稼ぐため、当時大流行ジャズ学ぼう横浜に行く。元ジャズシンガー米軍将校夫人渡りをつけ、下働き生徒はなったものの、ジャズは「肌に合わない」と悟る結果に終わる。 当座勉学資金を稼ぐため、進駐軍PX商品歌謡関係者に売る闇商売手を染める重な失意の中で秋に一旦帰郷はするが、暮に再び上京、再び聚楽舞台に立つ。1949年春に高橋掬太郎作詞上原げんと作曲の『燕来る頃』で初のテスト吹き込みをするが、新譜会議不採用になる。オーディション合格組の男性がワンコーラスずつ歌う上原作曲の『ラッキーボーイ』もまたお蔵入りとなり、赤貧日々はさらに続く。お蔵入り理由としては、会津訛り強くて低音が不十分、江口夜詩には「声がどうも華奢」と評された。他の専門家にも「唱歌みたい」「声に艶がない」と貶された。作詞家矢野亮曰く当時キングでは岡晴夫小畑実林伊佐緒等のベテラン勢に加え津村謙若原一郎高音美声魅力有望な若手活躍中で、新人渡部実にまでは手がまわらなかった。 また、この年の夏にはキング内紛があり、師の細川人員整理対象となった。それに加えて戦後復興途上レコード界は物資不足しレコード屋多く戦災から立ち直っていなかった。春日その後藤山一郎レコードを買い込んで日本語発音を自ら猛特訓したほか、雨の日も風の日も多摩川河原発声練習をした。改め専属となり、毎日舞台に出るようになった聚楽で、ピンチヒッターとしてたまたま出演した江口門下生である恵子知り合い意気投合細川一身上の都合からレッスン継続できなくなり、やがて恋仲となった恵子細川仲介により、江口師事江口の家に毎日のように通い掃除をしたり肩を揉んだしながら、曲を作ってもらえるよう願い続けた家出決行した恵子と、鍋一つない下宿事実上結婚生活スタートこの頃先輩歌手三門順子前座歌手となり、鞄持ち写譜時にはアレンジ係を兼ねて地方公演生活が続くが、心無い野次飛ばされ一曲歌えないことも少なくはなかった。

※この「歌手となる」の解説は、「春日八郎」の解説の一部です。
「歌手となる」を含む「春日八郎」の記事については、「春日八郎」の概要を参照ください。

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