敵性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 01:07 UTC 版)
「IG・ファルベンインドゥストリー」の記事における「敵性」の解説
化学閨閥の歴史は、国際紛争の火種として現代まで燻りつづけている。化学閨閥とは、スイスの個人銀行家エドゥアルト・グロイテルト (Eduard Greutert) やヘルマン・シュミッツ (Hermann Schmitz) のそれである。グロイテルトは1928年6月IGファルベンがIGケミーを設立するときの共同企画者であり、シュミッツはIGファルベンの共同設立者として母体のファルベンだけでなくIGケミーやドイツ・レンダーバンク(Deutsche Länderbank, 現ドイツ連邦銀行)でも要職にあった。翌1929年4月、IGファルベンがデラウェア州にアメリカンIGを設立し、アグファ・アンスコやジェネラル・アニリン (General Aniline Works) を傘下に収めた。1929年にはIGファルベンがIGケミーと、オプション付き配当保証契約を締結した。 1934年アイビー・リーが証言したところによると、アメリカンIGの重役にはエゼル・フォード (Edsel Ford) やウォルター・ティーグル (Walter Teagle) がおり、アイビー自身もIGファルベンのマックス・イルグナー (Max Ilgner) から年金25,000ドルをもらっていると証言した。彼が最初にもらった45,000ドルは中心人物ヘルマン・シュミッツとの契約にもとづいていたが、その金はIGケミー名義でニューヨーク・トラスト・カンパニー (New York Trust Company) へ預託されていた。 スイスは1934年ドイツと、1935年イタリアと手形交換協定を結んだ。これらは二国間の経常決済における実際の外貨交換をほぼ不用にする手形交換制度である。戦時中、ドイツはこの制度をスイス向け支払の約80%に使った。1940年には枢軸国政府に対し手形信用取引を認めた。そして1940年以降、枢軸国はスイスで軍需物資を著しく買い増していったのである。 1938年11月9日の夜ドイツでユダヤ人迫害事件が起こり、アメリカで報道された。するとIGファルベンとIGケミーは両者の資本関係を外観において分離しようと考えた。IGケミーの監査役会は1939年3月21日の「家族会議」で、アメリカンIGを敵性資産としての差押から守る方法について話し合った。シュミッツやメインバンクのグロイテルト一族だけでなく、ゴットフリート・ケラーやフェリックス・イゼリン (Felix Iselin) も出席した。イゼリンはメタルゲゼルシャフト (Metallgesellschaft) でキャリアを積み、軍人大佐・弁護士・全州議会議員という肩書きをもって、1929年スイス銀行コーポレイションの利益代表としてIGケミーの重役となっていたが、1940年にシュミッツの後任として会長となった。「家族会議」では、1929年の配当保証契約に付いたオプションが問題とされた。これは厳然たるIGファルベンの権利で、IGケミーの保有するアメリカンIGの普通株を必要なだけ譲ってもらえる仕組みだったが、ナチスドイツとアメリカンIGの密接な関係を示す外観でもあるのに、契約破棄はIGファルベンからしかできないことになっており、破棄したらしたでIGケミーの株主がIGファルベンから配当保証を受けられなくなるというジレンマでもあった。このような「家族会議」のあった1939年、グロイテルトが死去し、グロイテルト銀行がシュトゥルツェンエッガー (Struzenegger) 銀行と改名した。一方では同年にアメリカンIGがジェネラル・アニリンおよびアグファ・アンスコと合併し、GAF (General Aniline & Film) となった。国際決済銀行のあるバーゼルですり合わせの上、IGファルベンはナチドイツ経済省に多段式の複雑な方法を提示した。1940年6月、IGケミーが年次総会でオプション付き配当保証契約を破棄した。1941年1月、ヘンリー・モーゲンソウ米財務長官がGAFの主要な重役を解任した。1942年、GAF内部でIGケミーの影響力を排除する動きが活発化した。
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