1944年の行動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/17 00:16 UTC 版)
「白雲 (吹雪型駆逐艦)」の記事における「1944年の行動」の解説
1944年(昭和19年)1月1日、「白雲」はタンカー「帝洋丸」を護衛して占守島片岡湾に進出した。7日、2隻は幌筵海峡を出発する。流氷の危機を脱したが、「白雲」は若干の浸水被害を受けた。「帝洋丸」を室蘭まで護衛したあと、「白雲」は横須賀軍港に帰投した。その後は横須賀で修理と工事をおこなう。 この頃、藤永田造船所では夕雲型駆逐艦「秋霜」を建造していた。1月22日、平山敏夫(白雲駆逐艦長)は秋霜艤装員長に任命される。同時期、橋本正雄少佐は1月1日付で第7駆逐隊所属の駆逐艦「漣」艦長に任命されていたが、「漣」は中部太平洋方面輸送作戦従事中の1月14日、米潜水艦アルバコア (USS Albacore, SS-218) に撃沈された。秋霜艤装員長に任命された平山少佐の後任として、橋本正雄少佐は白雲駆逐艦長に任命された。 2月上旬、「白雲」は重巡「高雄」等と共に空母「雲鷹」の救援に協力した。7日、大湊に到着する。第9駆逐隊(霞、白雲、薄雲)が揃い、訓練をおこなった。2月末、幌筵へ進出した。3月1日、第9駆逐隊に不知火型駆逐艦の「不知火」が編入された。この時点の「不知火」は輸送船団を護衛しながら内地に向け航行中であり、「白雲」と合流することはなかった。 戦前の宣伝とは裏腹に、日本海軍の対潜兵器と対潜戦術は問題を抱えていた。3月15日、第9駆逐隊3隻(霞、白雲、薄雲)は輸送船4隻(山菊丸、慶安丸、梅川丸、日連丸)を護衛して北海道から千島列島の得撫島に向かった。対潜警報により釧路港に避難したあと、3月16日午後4時に釧路を出発した。日没後、「白雲」は「日連丸」から誤射された模様で、灯火を点じて敵味方を確認させた。同日午後11時35分、北海道愛冠岬約60km沖でアメリカ潜水艦トートグ (USS Tautog, SS-199) が船団部隊を襲撃する。魚雷が命中し、「白雲」は轟沈した。「白雲」後方約500mにいた「霞」は白雲沈没現場で乗組員数名を認めたが、対潜行動と船団護衛続行のため救助活動を断念した。「白雲」では、橋本正雄艦長ら全乗員が戦死した。日本軍記録 北緯42度18分 東経145度11分 / 北緯42.300度 東経145.183度 / 42.300; 145.183。米軍記録 北緯42度25分 東経144度55分 / 北緯42.417度 東経144.917度 / 42.417; 144.917。トートグによる被害は白雲轟沈にとどまらず、「日蓮丸」も魚雷をうけて沈没した。「霞」が爆雷投下による対潜攻撃を行ったがトートグを撃沈できず、「薄雲」は船団を護衛して釧路に退避した。駆逐艦「神風」と「波風」が9駆司令の指揮下に入り、対潜掃蕩をおこなった。第一水雷戦隊司令官木村昌福少将は駆逐艦「初春」に将旗を掲げ、麾下駆逐艦(霞、薄雲、若葉、初霜、神風、波風)と海防艦「国後」を率いて対潜掃蕩をおこなうが、戦果はなかった。 第一水雷戦隊の戦時日誌によると、3月13-15日に陸軍航空隊が北海道南方沖に米潜水艦数隻を発見しており、海軍への情報伝達の不備が「白雲」と「日連丸」喪失の一因と指摘している。当時、霞砲術長であった田上俊三によれば、「白雲」轟沈直後に海上に投げ出された生存者の「オーイ」「オーイ」と叫ぶ声が聞こえていたが、敵潜水艦が海域にいたことや船団の護衛任務があったため、「霞」は救助を行うことができなかった。一旦小樽に戻った「霞」は再び現場に戻ったが、生存者の姿は既に全くいなくなっていた。この時期の釧路沖の海水温は低く、途中で力尽きたものと思われる。 「日連丸」の生存者も僅か46人または47人であった。轟沈した「白雲」に比べて沈没まで多少時間があり、筏で漂流していたところを「霞」に救助された。大量の犠牲者を出した「日連丸」沈没の事実は遺族たちに伏せられた。真相が明らかになるのは戦後40年余りが経過してからのことであった。 3月31日、白雲は除籍された。同日付で第9駆逐隊は第18駆逐隊に改編された。残存3隻(薄雲、霞、不知火)は引き続き第18駆逐隊に所属した。
※この「1944年の行動」の解説は、「白雲 (吹雪型駆逐艦)」の解説の一部です。
「1944年の行動」を含む「白雲 (吹雪型駆逐艦)」の記事については、「白雲 (吹雪型駆逐艦)」の概要を参照ください。
1944年の行動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 07:58 UTC 版)
「薄雲 (吹雪型駆逐艦)」の記事における「1944年の行動」の解説
1944年(昭和19年)1月上旬、「薄雲」は大鷹型航空母艦の護衛を命じられた。1月8日、空母2隻(神鷹、海鷹)、吹雪型駆逐艦3隻(薄雲、電、響)はシンガポールに向け呉を出発したが、「神鷹」の機関故障により大分県佐伯市で仮泊した。「神鷹」は呉に回航され、シンガポールには「海鷹」と第6駆逐隊のみが向かった。連合艦隊は「薄雲」と夕雲型駆逐艦の「玉波」(第32駆逐隊)を神鷹艦長石井藝江大佐の指揮下に入れた。1月19日、「神鷹」は徳山沖で試運転を行うが、1月21日に呉へ回航された。「神鷹」の機関不調は深刻で、7月上旬のヒ69船団護衛が「神鷹」の初出撃となった。「薄雲」は「霞」と合流し、23日より呉工廠でレーダーの残工事を実施した。結局、「薄雲」と「玉波」が「神鷹」を護衛して航海する機会はなかった。 2月7日、「薄雲」は重巡洋艦「那智」を護衛して内海西部を出発、北方にむかった。2月9日、「那智」と「薄雲」は大湊に到着した。翌10日、第五艦隊旗艦は「多摩」から「那智」に戻る。また大湊に第9駆逐隊(霞、薄雲、白雲)が揃い、しばらく整備と訓練をおこなう。2月15日、第五艦隊司令長官は河瀬中将から志摩清英中将に交代した。 戦前の華々しい宣伝とは裏腹に、日本海軍の対潜兵器と対潜戦術は問題を抱えていた。さらに北方の悪天候と低水温が、潜水艦の捜索や沈没艦生存者の救助を困難にした。2月28日、「薄雲」は松輪島守備隊を乗せた輸送船3隻(良洋丸、富国丸、明石丸)を護衛して大湊を出撃した。3月2日深夜、「明石山丸」は米潜水艦「サンドランス」に撃沈される。全乗船者が戦死した。3月3日、船団部隊は松輪島に到着したが、悪天候のため翌4日に「良洋丸」が座礁した。「良洋丸」は松輪島に擱座したまま、終戦を迎えた。 「薄雲」が船団護衛中の3月1日、第9駆逐隊に不知火型(陽炎型)駆逐艦「不知火」が編入され、9駆は定数4隻(薄雲、白雲、霞、不知火)を回復した。 3月16日夕刻、第9駆逐隊(霞、白雲、薄雲)は輸送船4隻(山菊丸、慶安丸、梅川丸、日連丸)を護衛して釧路を出発した。同16日深夜、得撫島に向かう途中の愛冠岬60km沖で米潜水艦「トートグ」 (USS Tautog, SS-199)の襲撃を受ける。被雷した「白雲」は轟沈した。「トートグ」の雷撃により「日連丸」も撃沈された。「霞」が敵潜制圧を実施し「薄雲」は船団部隊(翌17日午前中には駆逐艦波風と神風が9駆の指揮下に入った)を護衛して釧路に退避した。白雲艦長以下全乗組員が戦死した。「日連丸」も多数の戦死者を出した。 「白雲」の除籍と共に3月31日附で第9駆逐隊は解隊され、残存駆逐艦3隻(薄雲、霞、不知火)は新たに編制された第18駆逐隊に所属する。第18駆逐隊(薄雲、霞、不知火)は引き続き第五艦隊隷下の第一水雷戦隊に所属した。 6月中旬、マリアナ方面の戦いがはじまったことに伴い、第五艦隊各艦は横須賀に集められた。第五艦隊(那智、足柄、多摩、一水戦)と増援部隊は扶桑型戦艦「山城」と共にサイパン島へ突入する準備を行う。「薄雲」は僚艦と共に横須賀海軍工廠で大発動艇の搭載工事等をおこなった。だがマリアナ沖海戦の惨敗や、サイパン地上戦の情勢に鑑み、作戦は中止された。6月末から7月上旬にかけて第五艦隊や第十一水雷戦隊が硫黄島防備強化のため小笠原諸島方面輸送作戦に従事する一方、「薄雲」(一水戦司令官木村昌福少将座乗)と第7駆逐隊(潮、曙)および「帝洋丸」は大湊へ戻る。7月2日には小樽へ移動した。7月5日、木村司令官は「薄雲」から「霞」に将旗を移した。 1944年(昭和19年)7月5日、駆逐艦3隻(第7駆逐隊〈曙、潮〉、第18駆逐隊〈薄雲〉)と輸送船4隻(太平丸、梅川丸、笠戸丸、第二号新興丸)で編成された「キ504船団」部隊は小樽港を出発した。7月7日16時14分、オホーツク海を航行中の「キ504船団」部隊は米潜水艦「スケート」 (USS Skate, SS-305)に襲撃され、被雷した「薄雲」は沈没した。若杉駆逐艦長を含め、薄雲全乗組員267名が戦死した。「潮」でも下士官1名が戦死している。日本側沈没地点記録.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯47度36分 東経148度10分 / 北緯47.600度 東経148.167度 / 47.600; 148.167。米軍による沈没地点記録北緯47度43分 東経147度55分 / 北緯47.717度 東経147.917度 / 47.717; 147.917。7月9日には「太平丸」も米潜水艦「サンフィッシュ」に撃沈され、乗船中の朝鮮人労働者を含めて多数が戦死した。第7駆逐隊や応援部隊は対潜掃蕩をおこなうが、霧の為に効果をあげられなかった。 9月10日、駆逐艦「薄雲」は初雪型駆逐艦、第18駆逐隊、帝国駆逐艦籍より除籍された。
※この「1944年の行動」の解説は、「薄雲 (吹雪型駆逐艦)」の解説の一部です。
「1944年の行動」を含む「薄雲 (吹雪型駆逐艦)」の記事については、「薄雲 (吹雪型駆逐艦)」の概要を参照ください。
- 1944年の行動のページへのリンク