軍縮概念の芽生え
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/23 04:50 UTC 版)
太平洋戦争を広島・長崎への原爆投下で終えたアメリカの科学者の多くは、その罪の自責の念にかられ、戦争直後から核兵器や他の兵器を国際管理すべきと考え、その運動を始めた。1945年11月に原子力科学者連盟 (Federation of Atomic Scientists) を組織し核戦争の危険を訴えた。1946年の出版の『ひとつの世界あるいは無か (One World or None)』ではオッペンハイマーやアインシュタインらを含めた科学者は「核兵器を管理し、核戦争を防止する方策は国際的な査察体制だ」と主張し、オッペンハイマーは「核兵器の破壊力とその影響は想像を絶するものがあり、これを防止する手立ては国益という概念よりも我々人間への福祉であり、安全保障である。それは国益と呼べるものよりも大きいと気付くべきである」と提言した。アインシュタインも同意し、「核の時代の安全保障の基本支柱は軍事力を国家から引き離す事である」と述べ、世界中が兵力を競い合うのではなく、「超国家軍」の兵力のみが平和維持の任務を与えられるべきと訴えた。原子力科学者連盟は1940年代後半に核軍縮の推進などを求めて設立された他の組織を吸収合併した。「原爆禁止運動」は広がりをみせ、混沌とする世界情勢に何らかのピリオドを打たねばならなかった。唯一の解決策は何らかの世界政府しかないと人々は思うようになり、国際連合以上のものを求め、模索した。
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