第6航空軍司令官
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教導航空軍の改編に伴い1944年(昭和19年)12月26日第6航空軍司令官を拝命。きたる沖縄を含む本土近辺での大規模な特攻作戦を行う第6航空軍で、若い特攻隊員を納得させるだけではなく、各指揮官や参謀を目的に向かって一丸にさせるため、生粋の航空畑育ちで陸軍航空の第一人者となっていた菅原の統率力を期待した人事であった。特攻作戦を企画する側から、前線で指揮する立場となった菅原は、かつては特攻に懐疑的であったのにも関わらず、フィリピンを失い、硫黄島にもアメリカ軍が迫るといった追い詰められた状況では特攻にしか頼る道はないと考え始めていた。海軍側で特攻を主導していた第一航空艦隊大西瀧治郎中将は特攻のことを「統率の外道」と考えていたが、菅原は戦後に特攻作戦を指揮した当時のことを振り返って「統率無し」と評価している。これは、本来の「統率」ということばが持つ、部下将兵に適切な教育訓練を行い、上下の信頼関係を確立し、綿密な作戦計画を立てて、勝てる作戦を実施し、味方の損害を極小に抑え敵になるべく大きな損害を与えるような戦いに部下を送り込むといった意味合いに、特攻作戦は合致することはないため、もはや特攻には統率というものは存在しないという考えに基づいたものであった。 1945年3月、沖縄戦開始に伴い第6航空軍本部は福岡市に移り、沖縄方面への特攻作戦の指揮を執ることとなる。しかし、特攻隊の数と質を十分揃えることができず、海軍からは批判も寄せられた。菅原は3月22日の日記に「隷下の作戦を正当に判断すれば最低の作戦に満足せざるべからざる次第にて、上司を誤らしむること無からしめんが為、正直なる認識を報告したる次第」と豊田副武連合艦隊司令長官にその状況を率直に伝えたと記している。3月26日に天一号作戦が下達されるが、菅原は準備の不足を痛感しており、その状況での特攻作戦に「然し未熟の若者を只指揮官が焦りて無為に投入するは忍び得ざる処なるが、片や戦機は如何。敵の上陸を目前に、特攻隊に両三日の訓練を与うとして、著しく戦力の向上を期し得るや否や」という苦悩を日記に綴った。 かつては「仁将」などと呼ばれ、部下思いに定評があった菅原も、戦死前提の出撃という特攻作戦の性質で、次々と配置されては数日のうちに出撃していく特攻隊員との上下の精神的繋がりが持てず、軍司令官として部下将兵の人心掌握が実質不可能であることを思い悩み、せめて出撃の首途ぐらいは見送ってやりたいと考えた。最初はそんな思いもあって「今回の挙に参した諸子の行動は崇高な軍人精神の発露であって、肉体に死して霊に行き、現在に死して未来に生き、個人に死して国家に生きるものである。我等もあとに継ぐであろう、安んじて征け」などと感情をこめて訓示をしたが、舌がもつれて声にならず、少しでも心を緩めると涙が溢れそうになるため、なるべく冷血に振る舞おうと意識して、訓示も次第に簡単なものになっていったという。しかし、ときには、絶筆『所感』を遺した第56振武隊上原良司少尉らを見送ったときのように、「明日の出発は早いし、出撃準備にあわただしいことであるから、とくに今、集まってもらった」から始まって「今諸士を特攻隊として送るに当たり、諸士の父兄の気持ちを思うと、感慨無量である。自分には諸士と同じ齢ごろの子供がある。それをもって、諸士の父兄の気持ちを推察する時、万感、胸に迫るものがある」そして結びに「最後の時に慌てるな。・・・・終わり」と万感の思いを込めて余韻に浸るなど、かなりの長時間に渡る決別の訓示を泣きながらしたこともあり、逆に、帰還した特攻隊員相手に「貴官らは、どうして、生きて帰ってきたか」「死ぬことができないのは、特攻隊の名誉をけがすことだ」という趣旨の激しい訓話を行ったこともあった。いずれにしても、菅原にとって特攻隊員に訓示をする時間がもっとも苦痛なひとときであったという。そのため、精神的に追い詰められた菅原は屡々健康を害して、睡眠薬を常用するようになっていた。 航空総軍は旧式機などもかき集めて特攻機として第6航空軍に増加配分したため、エンジントラブルや敵を発見できずに、多くの特攻機が帰還している。わずかに敵に突入しても戦果ははかばかしくなく、4月14日の日記には「当方押され勝ちにて漸次特攻効かなくなる」「特攻の効果如何と惑う」と記し、第6航空軍は、軍司令部近隣の私立福岡女学校(現・福岡女学院中学校・高等学校)の寄宿舎を接収して、帰還した特攻隊員などを宿泊させたが、この施設が「振武寮」と呼称されて、この施設の管理人のひとりである第6航空軍参謀倉澤清忠少佐が帰還した特攻隊員を虐待したという証言もある。しかし菅原自身は「この種のこと(特攻機の帰還のこと)で軍司令官として特に処理した覚えはない」として直接は関わらなかったと当時の日記に記述している。 大和特攻の際には、同じ海軍ながら大和の航空支援を拒絶した美濃部正少佐率いる芙蓉部隊など、海軍側が十分な航空支援を行わないなかで、菅原は「(大和特攻の際に)南九州の第100飛行団が四式戦闘機疾風48機を投入して、奄美大島付近の制空権を一時的に掌握、協力する」と海軍側に約束している。約束通り、菅原は第100飛行団を主力とする陸軍航空隊の戦闘機41機の出撃を命じ、12:00から14:00にかけての制空戦闘で10機が未帰還となったが、陸軍の航空支援にも関わらず、大和はアメリカ軍艦載機の攻撃を受けて沈没した。 大陸命第一二七八号(1945年3月19日) にて連合艦隊司令長官の指揮下に置かれて、海軍と一体の特攻作戦を推進していた第6航空軍は、海軍の菊水作戦に呼応して特攻機の出撃を続けて、連合軍艦隊に多大な損害を与えた。アメリカ軍の公式記録上、沖縄戦でのアメリカ海軍の損害は、艦船沈没36隻、損傷368隻、艦上での戦死者は4,907名、負傷者4,824名と大きなものとなったが、その大部分は特攻による損害で、アメリカ海軍史上単一の作戦で受けた損害としては最悪のものとなっている 第6航空軍は指揮下に空挺部隊で編成された特殊部隊義烈空挺隊を擁していたが、特攻の最大の障壁となっていた沖縄のアメリカ軍飛行場を撃破すべく、菅原は部隊の投入を大本営に陳情し続けていた。なかなか承認されなかったが、1945年5月に参謀本部第1部長宮崎周一中将が九州に来訪したさいに菅原は宮崎に義烈空挺隊の投入を直談判し、ようやく決裁を得た。しかしながら、決裁はとったものの、沖縄戦の大勢も決し時期を逸した大本営の許可に、菅原は作戦の決行を躊躇したが、これまで何度も出撃が中止となってきた義烈空挺隊の隊長奥山道郎少佐が「空挺隊として若し未使用に終わるようなことになっては何の顔(かんばせ)あって国民に相まみえん」「当局の特別なる保護と、世上の絶大な尊敬に対して、武人の最期を飾るべき予期の戦場さえ与えられないとなると、国民国家に対して顔向けができようか」と心中を吐露したため、菅原は「部下に死に場所を与える」という感情に流されて出撃命令を下した。 参謀本部は、義烈空挺隊輸送機として九七式重爆撃機12機、飛行場夜間爆撃機として四式重爆撃機12機、九九式双発軽爆撃機10機の投入も許可、海軍の第五航空艦隊司令長官宇垣纏中将は義号作戦を援護するため、一式陸上攻撃機17機、銀河13機、それに護衛として夜間戦闘機12機の投入を決定した。 陸海軍の協力により当時の日本軍としては大戦力が沖縄の飛行場を攻撃することとなったが、なかなか天候に恵まれず、ようやく天候が回復した5月24日18:50、第三独立飛行隊所属の12機の九七式重爆撃機が義烈空挺隊を乗せて陸軍熊本健軍飛行場を出撃した。うち4機が故障により帰投、残る8機が陸海軍機による空襲の対策に追われていた沖縄の嘉手納飛行場と読谷飛行場に突入したが、7機までが激しいアメリカ軍の迎撃で撃墜されて残る1機が読谷飛行場に突入した。敵飛行場への胴体着陸という日本軍の奇策にアメリカ軍は大混乱に陥り、輸送機から飛び出したわずか8名の義烈空挺隊員は38機のアメリカ軍航空機を撃破、7万ガロンの航空燃料を焼き払い、20名のアメリカ兵を殺傷して全滅した。この大混乱で読谷飛行場は暫く使用不可となったが、このあと再び天候が崩れて、飛行場が使用不能のときに特攻機をなるべく多く突入させようという日本軍の目論見は実現できなかった。後年、菅原は義号作戦について、日記で「後続を為さず、又我方も徳之島の利用等に歩を進めず、洵(まこと)に惜しきことなり、尻切れトンボなり。引続く特攻隊の投入、天候関係など、何れも意に委せず、之また遺憾なり」と義烈空挺隊の戦果を活かせなかったことを悔やんでいる。 こののち、第6航空軍は連合艦隊司令長官が菅原よりは後任の小沢治三郎中将に代わったタイミングで連合艦隊の指揮下を脱した。海軍が沖縄決戦か本土決戦かの意見が統一できずに、引き続き沖縄に特攻機や芙蓉部隊などの通常攻撃機を送り続け、防空体制の整ったアメリカ軍に対して戦略的には大して意味のない損失を増やしていたのに対して、菅原は、第6航空軍がすでに沖縄への航空作戦に予定以上の航空兵力を投入しており、これ以上沖縄に航空兵力を投入しても、兵力を無駄に消耗するのみと現実的な判断をして、6月9日をもって沖縄での主作戦を打ち切り、地上部隊への物資投下などの支援のみを行う事とした。菅原の命令で、陸軍機は沖縄南部日本軍陣地上空に毎日のように単機ないし数機飛来し、対戦車爆雷の資材や重砲の砲弾などの資材を投下して微々たる量とはいえ地上軍に物資を送り続け、かすかな希望を断続的に地上軍将兵に与えていた。
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