第6航空軍司令官とは? わかりやすく解説

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第6航空軍司令官

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 07:57 UTC 版)

菅原道大」の記事における「第6航空軍司令官」の解説

教導航空軍改編に伴い1944年昭和19年12月26日第6航空軍司令官を拝命。きたる沖縄を含む本土近辺での大規模な特攻作戦を行う第6航空軍で、若い特攻隊員納得させるだけではなく、各指揮官参謀目的向かって一丸にさせるため、生粋航空畑育ち陸軍航空第一人者となっていた菅原統率力期待した人事であった特攻作戦企画する側から前線指揮する立場となった菅原は、かつては特攻懐疑的であったにも関わらずフィリピン失い硫黄島にもアメリカ軍が迫るといった追い詰められ状況では特攻にしか頼る道はないと考え始めていた。海軍側で特攻主導していた第一航空艦隊大西瀧治郎中将特攻のことを「統率外道」と考えていたが、菅原戦後特攻作戦指揮した当時のことを振り返って統率無し」と評価している。これは、本来の「統率ということばが持つ、部下将兵適切な教育訓練行い上下信頼関係確立し綿密な作戦計画立てて勝て作戦実施し味方損害極小に抑え敵になるべく大きな損害与えるような戦い部下送り込むといった意味合いに、特攻作戦合致することはないため、もはや特攻には統率というものは存在しないという考え基づいたものであった1945年3月沖縄戦開始に伴い第6航空軍本部福岡市移り沖縄方面への特攻作戦指揮執ることとなる。しかし、特攻隊の数と質を十分揃えることができず、海軍からは批判寄せられた。菅原3月22日日記に「隷下作戦正当に判断すれば最低の作戦に満足せざるべからざる次第にて、上司を誤らしむること無からしめんが為、正直な認識報告した次第」と豊田副武連合艦隊司令長官にその状況率直に伝えた記している。3月26日天一号作戦下達されるが、菅原準備の不足を痛感しており、その状況での特攻作戦に「然し未熟若者を只指揮官焦り無為に投入する忍び得ざる処なるが、片や戦機如何。敵の上陸を目前に、特攻隊両三日訓練与うとして、著しく戦力の向上を期し得るや否や」という苦悩日記綴ったかつては「仁将」などと呼ばれ部下思い定評があった菅原も、戦死前提出撃という特攻作戦性質で、次々と配置されては数日のうちに出撃していく特攻隊員の上下の精神的繋がり持てず軍司令官として部下将兵人心掌握実質不可能であることを思い悩み、せめて出撃首途ぐらいは見送ってやりたい考えた最初はそんな思いもあって「今回の挙に参した諸子行動崇高な軍人精神発露であって肉体死して霊に行き、現在に死して未来生き個人死して国家生きるのである我等もあとに継ぐであろう安んじて征け」などと感情をこめて訓示をしたが、舌がもつれて声にならず、少しでも心を緩めると涙が溢れそうになるため、なるべく冷血振る舞おう意識して訓示次第簡単なものになっていったという。しかし、ときには絶筆所感』を遺した第56振武隊上原良司少尉らを見送ったときのように、「明日出発早いし、出撃準備にあわただしいことであるから、とくに今、集まってもらった」から始まって「今諸士特攻隊として送るに当たり、諸士父兄気持ちを思うと、感慨無量である。自分には諸士と同じ齢ごろの子供がある。それをもって諸士父兄気持ち推察する時、万感胸に迫るものがある」そして結びに「最後時に慌てるな。・・・・終わり」と万感の思い込めて余韻に浸るなど、かなりの長時間に渡る決別訓示泣きながらしたこともあり、逆に帰還した特攻隊員相手に「貴官らは、どうして、生きて帰ってきたか」「死ぬことができないのは、特攻隊の名誉をけがすことだ」という趣旨激し訓話行ったこともあった。いずれにしても菅原にとって特攻隊員訓示をする時間がもっと苦痛ひとときであったという。そのため、精神的に追い詰められ菅原屡々健康を害して睡眠薬常用するようになっていた。 航空総軍旧式機などもかき集めて特攻機として第6航空軍増加配分したため、エンジントラブルや敵を発見できずに、多く特攻機帰還している。わずかに敵に突入して戦果はかばかしくなく、4月14日日記には「当方押され勝ちにて漸次特攻効かなくなる」「特攻効果如何惑う」と記し、第6航空軍は、軍司令部近隣私立福岡女学校(現・福岡女学院中学校・高等学校)の寄宿舎接収して、帰還した特攻隊員などを宿泊させたが、この施設が「振武寮」と呼称されて、この施設の管理人のひとりである第6航空軍参謀倉澤清忠少佐帰還した特攻隊員虐待したという証言もある。しかし菅原自身は「この種のこと(特攻機帰還のこと)で軍司令官として特に処理した覚えはない」として直接は関わらなかったと当時日記記述している。 大和特攻の際には、同じ海軍ながら大和航空支援拒絶した美濃部正少佐率い芙蓉部隊など、海軍側が十分な航空支援行わないなかで、菅原は「(大和特攻の際に)南九州の第100飛行団四式戦闘機疾風48機を投入して奄美大島付近制空権一時的に掌握協力する」と海軍側に約束している。約束通り菅原は第100飛行団主力とする陸軍航空隊戦闘機41機の出撃命じ12:00から1400にかけての制空戦闘10機が未帰還となったが、陸軍航空支援にも関わらず大和アメリカ軍艦載機攻撃受けて沈没した大陸命第一二七八号1945年3月19日) にて連合艦隊司令長官指揮下に置かれて、海軍と一体の特攻作戦推進していた第6航空軍は、海軍菊水作戦呼応して特攻機出撃続けて連合軍艦隊多大な損害与えたアメリカ軍公式記録上、沖縄戦でのアメリカ海軍損害は、艦船沈没36隻、損傷368隻、艦上での戦死者は4,907名、負傷者4,824名と大きなものとなったが、その大部分特攻による損害で、アメリカ海軍史上単一作戦受けた損害としては最悪のものとなっている 第6航空軍指揮下に空挺部隊編成され特殊部隊義烈空挺隊擁していたが、特攻最大障壁となっていた沖縄アメリカ軍飛行場撃破すべく、菅原部隊投入大本営陳情し続けていた。なかなか承認されなかったが、1945年5月参謀本部第1部長宮崎周一中将が九州来訪したさいに菅原宮崎義烈空挺隊投入直談判し、ようやく決裁得たしかしながら決裁はとったものの、沖縄戦大勢決し時期逸した大本営許可に、菅原作戦決行躊躇したが、これまで何度も出撃中止となってきた義烈空挺隊隊長奥山道郎少佐が「空挺隊として若し未使用に終わるようなことになって何の顔(かんばせ)あって国民に相まみえん」「当局特別な保護と、世上絶大な尊敬に対して武人最期を飾るべき予期戦場さえ与えられないとなると国民国家に対して顔向けできようか」と心中吐露したため、菅原は「部下死に場所与える」という感情流されて出撃命令下した参謀本部は、義烈空挺隊輸送機として九七式重爆撃機12機、飛行場夜間爆撃機として四式重爆撃機12機、九九式双発軽爆撃機10機の投入許可海軍第五航空艦隊司令長官宇垣纏中将義号作戦援護するため、一式陸上攻撃機17機、銀河13機、それに護衛として夜間戦闘機12機の投入決定した陸海軍協力により当時日本軍としては大戦力が沖縄飛行場攻撃することとなったが、なかなか天候恵まれず、ようやく天候回復した5月24日18:50第三独立飛行隊所属12機の九七式重爆撃機義烈空挺隊乗せて陸軍熊本健軍飛行場出撃した。うち4機が故障により帰投、残る8機が陸海軍機による空襲対策追われていた沖縄嘉手納飛行場読谷飛行場突入したが、7機までが激しアメリカ軍迎撃撃墜されて残る1機が読谷飛行場突入した敵飛行場への胴体着陸という日本軍奇策アメリカ軍大混乱に陥り、輸送機から飛び出したわずか8名の義烈空挺隊員は38機のアメリカ軍航空機撃破、7ガロン航空燃料焼き払い20名のアメリカ兵殺傷し全滅した。この大混乱読谷飛行場暫く使用不可となったが、このあと再び天候崩れて飛行場使用不能のときに特攻機をなるべく多く突入させようという日本軍目論見実現できなかった。後年菅原義号作戦について、日記で「後続を為さず、又我方も徳之島利用等歩を進めず、洵(まこと)に惜しきことなり尻切れトンボなり。引続く特攻隊投入天候関係など、何れも意に委せず、之また遺憾なり」と義烈空挺隊戦果活かせなかったことを悔やんでいる。 こののち、第6航空軍連合艦隊司令長官菅原よりは後任小沢治三郎中将に代わったタイミング連合艦隊指揮下を脱した海軍沖縄決戦本土決戦かの意見統一できずに、引き続き沖縄特攻機芙蓉部隊などの通常攻撃機を送り続け防空体制整ったアメリカ軍に対して戦略的に大して意味のない損失増やしていたのに対して菅原は、第6航空軍がすでに沖縄への航空作戦予定上の航空兵力を投入しており、これ以上沖縄航空兵力を投入しても、兵力無駄に消耗するのみと現実的な判断をして、6月9日をもって沖縄での主作戦打ち切り地上部隊への物資投下などの支援のみを行う事とした。菅原命令で、陸軍機は沖縄南部日本軍陣地上空毎日のように単機ないし数機飛来し対戦車爆雷資材重砲砲弾などの資材投下して微々たるとはいえ地上軍物資送り続けかすかな希望断続的に地上軍将兵与えていた。

※この「第6航空軍司令官」の解説は、「菅原道大」の解説の一部です。
「第6航空軍司令官」を含む「菅原道大」の記事については、「菅原道大」の概要を参照ください。

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