沿革と概略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 05:34 UTC 版)
「本覚寺 (秋田県美郷町)」の記事における「沿革と概略」の解説
室町時代後半、本覚寺は寺運の衰退いちじるしい状況にあったが、天文・弘治年間(1532年-1557年)、真昼岳山麓の元本堂村藤花(美郷町千屋地区)に四国の藤光坊(とうこうぼう)こと常蓮社等誉が住んで草庵を営んだのが嚆矢といわれる。本堂城の城主本堂吉高が夢告によって等誉に深く帰依したことで本覚寺が再興され、吉高は本覚寺を菩提寺として田地や宝物を寄進したという。 一説には、本堂氏が山城であった元本堂城(浪花村)から平城である本堂城(本堂城回村)に移った際、同時に本覚寺もうつったとされる。三河国出身の紀行家菅江真澄も『月の出羽路仙北郡』(文政9年-12年、1826年-1829年)のなかで、本堂城主について「元本堂より本覚寺も城引き移して、天文四年の頃は領地もいや増して、いよいよ家栄えて折々出陣ありし也」と記している。 慶長6年(1601年)、本堂氏は徳川家康の命によって常陸国に転封され、入れ替わりに常陸から佐竹氏が入部した。慶長8年(1603年)、藩主義宣の父で六郷城に入った佐竹義重は近在の寺院を六郷に集めた際、本覚寺も現在地の六郷字東高方町に移転させた。このとき檀家約60戸も寺とともに移住し、現在の六郷字本道町に居を構えたと伝えられている。朱色に塗られた楼門をもつ格式の高い浄土宗寺院であり、貴重な寺宝も多い。楼門の建物間口は2間、開口は1間あり、楼閣部には花頭窓が設けられており、屋根は入母屋造である。 明治11年(1878年)にこの地を訪れたイギリス人女性イザベラ・バードは、本覚寺でおこなわれた葬儀に出くわして詳細な記録をのこしており、そのなかで未亡人とみられる女性の美しさについてふれている。 秋田県の洋画の草分け的存在である六郷の小西正太郎(1876年-1956年)や酔経学舎創立、山本公園建設で知られる飯詰村の江畑新之助(1871年-1933年)の菩提寺でもある。
※この「沿革と概略」の解説は、「本覚寺 (秋田県美郷町)」の解説の一部です。
「沿革と概略」を含む「本覚寺 (秋田県美郷町)」の記事については、「本覚寺 (秋田県美郷町)」の概要を参照ください。
沿革と概略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/18 02:46 UTC 版)
「龍泉寺 (秋田県羽後町)」の記事における「沿革と概略」の解説
龍泉寺は、出羽山系七高山(標高303.5メートル)の東麓、標高94メートルの地点に所在する。七高山の頂上には、天平勝宝年間(749年-757年)の創建といわれる七高山神社があり、かつては修験道の霊地であった。七高山神社裏参道中腹には「七高山奥院」と呼ばれる巨石の連なる一画があり、そこには修験道の祖である役小角の石像が祀られた小堂がある。七高山全山には不動明王堂跡、文殊菩薩堂跡、白山堂跡など仏堂の跡が点在し、かつての山岳寺院の痕跡をとどめている。これらは、いずれも大規模な火災によって焼失したとされているが、「清岩寺」と書かれた山門の額だけは、いまも七高山神社に保存されている。 この地はまた、戦国大名小野寺氏庶流の小野寺甲斐守道親(高寺道親)の築営した城、高寺城のあった地とされており、高寺氏は七高山神社とともに山岳寺院を崇敬保護してきた。その山岳寺院が清岩寺(真言宗)であるのか、あるいは龍泉寺(曹洞宗)であるのかはよくわかっていない。いずれにせよ、小野寺氏は出羽国山形城に本拠を置く最上氏との抗争に敗れ、関ヶ原合戦敗戦の結果改易されたため、寺社はその保護を失って衰退した。 江戸時代に入り、出羽国平鹿郡増田(現、横手市増田町)の満福寺8世鳳庵全通によって曹洞宗瀧澤山龍泉寺が改宗開山のかたちで創建された。その年代は詳らかではないが、元和(1615年 - 1624年)の末もしくは寛永年間(1624年 - 1645年)と考えられる。 江戸時代後葉、経世家として知られる佐藤信淵が子どもだったころ、手のつけられない悪童だったため、この寺に預けられて修行させられたが、すぐにここから逃げだし、七高山奥院にこもって読書に明け暮れたという逸話がのこる。七高山の山中にはフクジュソウが群生しており、信淵は自身の農書『草木六部耕種法』のなかで「丈七八尺の福寿草、七高山の谷に生ぜり」と記している。
※この「沿革と概略」の解説は、「龍泉寺 (秋田県羽後町)」の解説の一部です。
「沿革と概略」を含む「龍泉寺 (秋田県羽後町)」の記事については、「龍泉寺 (秋田県羽後町)」の概要を参照ください。
沿革と概略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/02 14:48 UTC 版)
「宝泉寺 (秋田県羽後町)」の記事における「沿革と概略」の解説
室町時代の寛正年間(1460年-1466年)に陸奥国磐井郡願成寺(岩手県一関市釣山)の巌翁弘悦が当地を訪れ、零落している仏堂があるのをみて、これを再建、師の正法寺(岩手県奥州市黒石)8世梅栄元香を勧請して再興開山し、自身は2世となった。山号は、本尊の延命地蔵願王菩薩より延命山と号した。このような機縁により、宝泉山は磐井願成寺の末寺となったが、江戸時代に入って佐竹氏藩政下で、他領に本寺をおくことが禁止されたため、久保田藩の僧録所があった天徳寺(秋田市)の仲介などにより、平鹿郡満福寺(横手市増田町)とともに秋田郡松原補陀寺(秋田市)の客末寺となった。 こののち、26世天露暁雲は、黒衣托鉢によって基金を集め、嘉永5年(1852年)に本堂を再建した。
※この「沿革と概略」の解説は、「宝泉寺 (秋田県羽後町)」の解説の一部です。
「沿革と概略」を含む「宝泉寺 (秋田県羽後町)」の記事については、「宝泉寺 (秋田県羽後町)」の概要を参照ください。
- 沿革と概略のページへのリンク