文学的経歴と超越主義とは? わかりやすく解説

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文学的経歴と超越主義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 14:07 UTC 版)

ラルフ・ワルド・エマーソン」の記事における「文学的経歴と超越主義」の解説

1836年9月8日、'Nature'出版前日、エマーソンはフレデリック・ヘンリー・ヘッジ、ジョージ・パトナム、ジョージ・リプリーと会い同好知識人達の定期集会企画した。これが超越クラブはじまりであり、運動の中心部となった最初の公式会議1836年9月19日行われた1837年9月1日女性初め超越クラブ会議参加したエマーソンはマーガレット・ヒュラー、エリザベス・ホール、サラ・リプリーを確実に参加させるために、会議前に自宅夕食招いた。ヒュラーは超越主義重要人物になって行く。 1836年9月9日エマーソン匿名最初評論である'Nature'を出版した1年後1837年8月31日エマーソン今は有名となったΦΒΚ(ファイ=ベータ=カッパ)で'The American Scholar'を演説した。それは当初は「ケンブリッジのΦΒΚクラブ前で行われた演説」として知られていたが、1849年刊行評論集改名された。友人達は話を出版するよう促し自費出版したところ、500部はひと月のうちに売り切れた演説の中でエマーソンは、アメリカ知的独立宣言しアメリカ人ヨーロッパ離れて独自の様式執筆すべきことを力説した当時ハーバード学生だったジェームズ・ラッセル・ローウェルはそれを「アメリカ文学史上前未聞と言い、ロヴァーエンド・ジョン・ピースは「支離滅裂意味不明聞こえる」と言った1837年エマーソンヘンリー・デイヴィッド・ソロー親しくなった。1835年頃には既に会ってたようだが、1837年秋、エマーソンソローに「あなたは日記をつけていますか」と尋ね、この問いかけソロー一生涯にわたるインスピレーション与え続けたのであるエマーソン自身日記は、大判16巻完全版1960年から1982年にかけてハーバード大学出版会より発表された。日記エマーソン重要な文学作品とみなす学者もいる。 1837年エマーソンボストンフリーメイソン寺院歴史哲学に関する連続講演行った。これが初めて彼自身運営した連続講演であり、真の講演者として経歴始まりであった。この連続講演得た収入講演団体からもらっていたものよりかなり高額だったため、エマーソンその後も度々、自分講演運営した結果として80回にも及ぶ講演をし、北部アメリカ中をめぐったセントルイスデモインミネアポリスカリフォルニアまでも駆けつけた。 1838年7月15日エマーソンハーバード神学校神学会館招かれ卒業演説行った。それは「神学校演説」として知られることとなった。彼は聖書奇跡疑問視し、イエス偉大な人間であり、神ではないと宣言した伝統的キリスト教は、オリエントギリシアオシリスアポロンそうしたように、キリスト半神仕立て上げてしまった、と彼は語った彼の発言は、教会主流派や一般のプロテスタント社会では冒涜値した。そのため、彼は無神論者で、若者精神毒する非難された。批判対し自身応じず、他の人に弁護させた。その後30年間、彼はハーバードに再び招かれることはなかった。 超越クラブ1840年7月に、最大機関誌である'The Dial'を出版開始した。彼らは1839年8月には雑誌企画していたが、1840年の1週目まで仕事始めなかった。ジョージ・リプリーが編集長で、『十九世紀女性』(1845)の著者にして先駆的フェミニストであったマーガレット・ヒュラーが監修者であった数人断られた後、エマーソンは彼女を選んだのだった。ヒュラーは2年在任しエマーソン引き継ぎ、エレリー・チャニングやソローを含む、若い作家達の才能伸ばすことに雑誌活かしていった。 1841年、2冊目の著作である『エッセイ――第一集』'Essays'を出版した。そこには有名な'Self-Reliance'が含まれる彼の叔母はそれを「無神論と偽の独立宣言奇妙な寄せ集め」と呼んだが、それはロンドンパリ好評博した。この本の成功が他にも増して彼の国際的名声基盤となった1842年1月エマーソン長男ワルドは猩紅熱他界した。彼は自身悲しみを、詩'Threnody'の「喪いゆくこととは、死にゆくことに他ならない」や、評論'Experiance'で語った。同じ月にウィリアム・ジェームズ生まれエマーソン名付け親になった。 ブロンソン・オルコットは1842年11月、「良い建物と良い果樹園大地のある、素晴らし100エーカー農園をつくる」計画公言した。チャールズ・レーヌは90エーカー(360,000m2)の農園を、1843年5月マサチューセッツ州ハーバード購入した。それは超越主義部分的にインスピレーション受けたユートピア構想に基づく共同体である、フルーツランドとなる予定だった。農園共同体労働により運営され動物労役用いない参加者は肉を食べず羊毛毛皮用いないというものだったエマーソンは、彼自身実験関与しないことを「残念に思う」と語った例えそうでも、エマーソンフルーツランド成功するとは思っていなかった。「彼らの主張全くもって高い精神よるものなのだが、いつも最後にはもっと土地と金をよこせと言うのだ」と彼は書いている。さらにオルコットは、フルーツランド操業困難に対し準備をしていなかったと認めた。「我々の誰も夢に見た理想的生活を現実的に行っていく準備をしていなかった。だから失敗終わったのだ」と彼は記している。この失敗の後、エマーソンコンコードオルコット一家のための農場を買う手助けをした。その農場オルコットは'Hillside'と名付けた。 'The Dial'は1844年4月をもって廃刊した。ホラス・グリーリーはそれを、「この国でかつて出版された、最も個性的思索的な定期刊行物最期」と報じた。(1929年から数回同名無関係な雑誌刊行されている) 1844年エマーソン彼の2番目の評論集エッセイ――第二集』'Essays: Second Series'を出版した。ここには'The Poet'、'Experience'、'Gifts'、そして1836年のものと同名だが異な作品の'Nature'が収録された。 エマーソンニューイングランド及び国内多く地域有名な講演者となり生計立てていた。1833年講演始め1850年代には年間80回にも及んだ1回につき10ドルから50ドル受け取り通常冬の「講演シーズン」には2,000ドル下らない収入舞い込んだ。これは他からの収入より多かった何年かは6回の連続講演900ドル稼ぎボストンの冬の連続講演で1,600ドル手に入れた。彼はその収入所有地を広げることが出来ウォールデン湖のそばに11エーカー(45.000m2)の土地と、その近く松林エーカー購入した。彼は「およそ14エーカー土地水域領主」と自らについて書いている。 エマーソンフランス哲学者ヴィクトル・クザン作品読んだ際に、印度哲学出会った1845年エマーソン日記には、彼が『バガヴァッド・ギーター』ヘンリー・トーマス・コールブルックの'Essays on the Vedas'を読んでいるとある。エマーソンインド古典ヴェーダ』から強い影響を受け、彼の著作多く一元論色調が濃い。彼の超越主義哲学は、ラーム・モーハン・ローイのネオ・ヴェーダーンタ(英語版)の影響強く受けたといわれるインド思想影響最たる例のひとつは、'The Over Soul'のうちに認められる。 我々は連続したものや、断片、かけら、微粒子の中で生きている。それに対し人間の内には全なる魂がある。それは智者沈黙であり、この世界の美である。全なる魂故にあらゆるかけらも粒子も、等しく永遠な一者関係している。そしてその内に我々が存在し、その無上の幸福がすべて我々の手に入るこの深淵なる力は、どんな時も自らを満たし完全であるだけでない。見ることと見られるのであること、見る者と見せ物主体と客体がひとつであるのだ。我々はこの世界部分部分で、太陽とか、月とか、動物とか、木とかいうようにしか見ない。だがそれらのものが一部として光り輝いている、全なるものが魂なのである1847年から1848年にかけて、エマーソンイングランドスコットランドアイルランド旅行した。彼はまた、二月革命六月蜂起の間にパリ訪れた。彼が到着した時、2月暴動バリケード作るために切り倒され木の切り株見た5月21日、彼は旧練兵場で、調和と平和と勤労を祝う群衆只中にあった。彼は日記に、「今年終わりに、私は革命一本木に値したかどうか見定めよう」と記した。この旅はエマーソン後の作品重要な痕跡残した彼の1856年著作'English Traits'は、旅行日記手記記録した観察大きく基づいている。エマーソンは後にアメリカ南北戦争を、1848年ヨーロッパで起きた革命と同じ基盤を持つ「革命」であるとみなすようになった1852年2月エマーソンとジェームズ・フリーマン・クラーク、ウィリアム・ヘンリー・チャニングは、1850年死去したマーガレット・ヒュラーの作品手紙編集をした。彼女の死から1週間のうちに、ニューヨークの彼女の編集者ホラス・グリーリーはエマーソンに、「彼女の死の悲しみにより高まっている関心冷めないうちに」ヒュラーの伝記'Margaret and Her Friends'を出版するよう言った。'The Memoirs of Margaret Fuller Ossoli'という題で出版されたが、ヒュラーの言葉大幅に修正改ざんされた。三人正確さは気にしていなかった。彼らはヒュラーに対す大衆興味一時的なもので、彼女は歴史的人物としては残らない考えたのだ。例えそうであっても当時50年代伝記ベストセラーとなり、19世紀終わりまでに13版まで再版された。 ウォルト・ホイットマン1855年革新的詩集『草の葉』出版しエマーソン贈って意見求めたエマーソン肯定的に評価し返事として5頁の称賛の手紙を送ったエマーソン承認『草の葉』初版大きな関心を呼ぶ助けとなり、ホイットマンその後すぐに第2版を出す気になった。この版はエマーソンの手紙の言葉引いて、「私はあなたの大いなる経歴始まり歓迎します」と、表紙金色中に印刷したエマーソンこの手紙を公にしたことに抗議した。そして後にはこの作品対しより批判的になった。

※この「文学的経歴と超越主義」の解説は、「ラルフ・ワルド・エマーソン」の解説の一部です。
「文学的経歴と超越主義」を含む「ラルフ・ワルド・エマーソン」の記事については、「ラルフ・ワルド・エマーソン」の概要を参照ください。

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