文学的沈黙とは? わかりやすく解説

文学的沈黙

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 04:18 UTC 版)

ポール・ヴァレリー」の記事における「文学的沈黙」の解説

1892年9月から11月母方親戚の住むジェノヴァ滞在したこの頃詩人として才能疑い文学的な営みに対して激し嫌悪を抱くに至ったヴァレリー次第文学から遠ざかった。そして片思い恋慕など、雑多な思考切り捨て知性のみを崇拝することを決意した。この決意ジェノバ滞在中の記録的な嵐があった晩と同時とされる為、「ジェノバの夜」と呼ばれている。そして1894年から『カイエ』(手帖)と呼ばれる公表前提としない思索記録をつづり始め、その量は膨大な量(およそ26千ページとなった1895年評論レオナルド・ダ・ヴィンチの方法序説』を発表1896年小説テスト氏との夜会』を発表の後、『カイエ』の活動基軸とした20年に及ぶ文学的沈黙期に入る。 1896年ロンドン滞在した際に、マラルメから紹介されていた詩人ウィリアム・ヘンリー会い、その主催している雑誌『ザ・ニュー・レヴュー』に載ったドイツ産業イギリス大英帝国)への圧迫に関する論文について、哲学的結論フランス語書いて欲しいと依頼され当時方法(méthode)」について関心持っていたことから、「ドイツ制覇(La Conquête allemande)」を執筆し1897年掲載された。これは1915年フランス雑誌再録され、1924年に「方法的制覇(Une Conquête méthodique)」と改題されて刊行された。この論文では、ドイツイタリア日本など後発国家繁栄方法について述べており、のちの枢軸国示唆していたとも言われるユイスマンス勧め1897年から1900年まで陸軍省砲兵隊勤務1898年にはマラルメ死に大きな悲しみ抱いた1900年女流画家ベルト・モリゾの姪ジャニ・ゴビヤールと結婚。またアヴァス通信社のエドワール・ルベー社長私設秘書となり生計立てるようになる1913年ジッド請われ旧作の詩をまとめるかたわらで、「若きパルクその後いくつかの詩を書き1917年4月若きパルク」をNRF誌上発表し一躍名声勝ち得る。また「海辺墓地(Le Cimetière marin)」では当時十二音綴(アレクサンドラン)に比べて人気下がっていた「十綴音(デカシラーブ)」を用いたり、各節6行という詩型用いたりしており、1920年NRFより刊行され高い評価得た1921年には『コネッサンス』誌で現代七大詩人選出

※この「文学的沈黙」の解説は、「ポール・ヴァレリー」の解説の一部です。
「文学的沈黙」を含む「ポール・ヴァレリー」の記事については、「ポール・ヴァレリー」の概要を参照ください。

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