古代中世の国体観念
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:34 UTC 版)
国体の語が日本人一般に認識されたのは近代のことであるが、国体の語を用いなくともこれと同一の観念が起こったのはかなり古い。すなわち、日本人が自国を外国と比べて自国の国家成立の特色や国家組織の優秀性などを誇ることが多々あった。その特色または優秀性とされるものは、日本が神国であること、皇統が連続して一系であること等である。 古代日本において、我が国は神国なり、という観念が存在したことは、建国に関して神話が遺されていることから分かる。また古代において祭政一致により国を治めていたことも神国思想より起る。そのほか日本書紀の神功皇后の三韓征伐の条で、攻め寄せる日本兵を見た新羅王が「われ聞く。東に神国ありと。日本と謂う。また聖王ありと。天皇と謂う。必ずその国の神兵ならん」と言ったとされるのも、形は新羅王に言わせているが実は新羅王の口を借りて日本国民の観念を述べているのである。また大化の改新にあたって何事も唐の制度を取り入れたが、ただ神祇官を八省の上に置いたのは神国思想に由来するものである。 神国思想は万世一系の思想につながる。たとえば、道鏡が皇位を望んだとき、和気清麻呂が宇佐八幡宮の神託を受けて帰り、「我が国は開闢以来、君臣定まり、臣をもって君と為すことは未だあらざるなり。天の日嗣は必ず皇嗣を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除すべし」と奏したというのが、この万世一系思想の現れである。また大化2年(646)に中大兄皇子が詔に奉答して「天に双日なく、国に二王なし。これ故に天の下に兼ね併せて万民を使うべきは、ただ天皇のみ」と言上したとされるのは、天皇の神聖に対する理解を表明したものといわれる。 貞観11年(869)12月14日、新羅の船が襲来した知らせを受けて、その撃退を祈る伊勢神宮への告文に「日本朝は、いわゆる神明の国なり。神明の助け護り賜わば何の兵寇か近く来るべき」とあり、同29日の石清水八幡宮への告文にも「我が朝の神国と畏れ憚り来たれる」とあり、神明を信じて疑わない。平安貴族の日記である小右記や玉葉に「我が国は神国なり」との文言がある。軍記物語である保元物語に「我が国は辺地粟散の界といえども神国たるによりて」とあり、源平盛衰記に「日本はこれ神国なり。伊弉諾伊弉冉尊の御子孫、国の政を助け給う」とあり、また同書で平重盛が父の清盛を諌めるとき「日本はこれ神国なり。神は非礼を受け給わず」と述べたという。これは創作話であったとしても、物語の著者が重盛に仮託して自分の思想を述べたものである。そのほか諸書や和歌に「当朝は神国なり」「神の国」「我朝者神国也」「日本は神の御国」などの語が見える。貞永年間に始めて武家法制が定められると第一に神社を崇敬すべきことを掲げている。蒙古襲来の際にも、文永7年正月の蒙古に送る牒文案に「皇土を以て永く神国と号す」とある。蒙古の軍船が嵐で沈んだことについて、日本国民はこれを神明の加護によるものだと信じたという。 鎌倉時代の末、虎関師錬は著書『元亨釈書』において、日本は皇統連綿として万世に替わることがないと論じた。これは日本の国体の依って定まる所を明らかにしたものだという。 南北朝時代、南朝方の公家北畠親房は『神皇正統記』を著し、同書の始めに「大日本は神国なり。天祖、初めて基(もとい)を開き、日神、永く流れを伝え給う。我が国のみこの事あり、異朝にはその類いなし。それゆえ神国というなり」と述べて日本が神国であることを明示し、さらに進んで万世一系の国体を論じて「ただ我が国のみ天地ひらけし初めより今の世の今日に至るまで日嗣を受け給う事よこしまならず。一種姓におきても、おのずから傍らに伝え給いしすら、なお正に返える道ありてぞ保ちましましける」といい、「これ、しかしながら神明の御誓い新たにして余国に異なるべき謂われなり」と結ぶ。神道については「この国は神国なれば神道に違いては一日も日月を戴きまじく謂われなり」と論じた。 中世の体制は、皇室・摂関家・大寺社・将軍家などの権門勢家が縦割りで支配するものであり、権門勢家間の垣根を越えて日本国の一体感を強調する目的で神国思想が持ち出されることがあった。特に元寇など日本の国防上の危機感が高まったときに神国思想が強調された。
※この「古代中世の国体観念」の解説は、「国体」の解説の一部です。
「古代中世の国体観念」を含む「国体」の記事については、「国体」の概要を参照ください。
- 古代中世の国体観念のページへのリンク