八幡小学校の歴史とは? わかりやすく解説

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八幡小学校の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 06:55 UTC 版)

世田谷区立八幡小学校」の記事における「八幡小学校の歴史」の解説

1879年明治12年第1次教育令公布12月20日荏原郡奥沢村公立八幡学校開校奥澤神社のとなりのぶきの社寮を戸長毛利多喜氏らが修理し校舎とした。15坪、教室数1、児童数30名。簡易4年尋常科4年制1882年明治15年)- 荏原郡奥沢村尾山村立八幡小学となる。 明治16年には3代目として石井勝五郎校長就任し一方校長夫人自宅未婚の子女にお裁縫生け花教えるなどした。そして明治の末には早くも学校ミシン入って洋裁教えたという。 1884年明治17年)- 校名荏原郡奥沢村尾山村立八幡小学校となる。奥澤神社隣り新しく44坪の平家校舎新築教室数2)。 1886年明治19年)- 小学校令制定により校名荏原郡奥沢村尾山八幡尋常小学校となる。 1889年明治22年)- 市町村制施行により校名荏原郡玉川村八幡尋常小学校となる。 1901年明治34年)- 2か年高等科作られ校名荏原郡玉川村八幡尋常高等小学校となる。 1902年明治35年)- 平家校舎新築移転現在地となる。児童数173名。 1905年明治38年)- 校庭に「誉れ」が植えられた。 学校教育厳しく生徒たち鍛えられたが、折々行事校庭真ん中にある桜の木の下でオルガン合わせて歌を歌ったことなど懐かしい思い出もあった。このサクラは「誉れ」といわれ、明治378年日露戦争参加した人たちが、母校記念として植えたもので、長い間八幡小学校シンボルとなっていた。 1907年明治40年)- 小学校義務教育6か年となった1917年大正6年)- 等々力単独高等小学校新設されたことにより(現等々力小学校)、校名荏原郡玉川村八幡尋常小学校となる。9月大暴風のため校舎屋根飛ばされ九品仏浄真寺三仏堂借りて翌年1月まで授業行った大正10年ごろになると、八幡小学校生徒の数が260名くらいになった通学する時は制帽久留米がすりの着物へこ帯をしめ、ぞうりがけげたばきで、祝日にははかまをはいた。体操の時間着物のまま、はだしではしったということである。 そのうち奥澤神社東北あたりに海軍ができて、そこの子どもも4・5クラス入ってきて、黒か紺色つめえり服に革靴をはく姿が見られるようになった。この格好農家の子供の目には珍しかったことだろう。 そのころまだ中学校はなかった。そこでもっと勉強したい子供は、卒業した後、玉川村尋常高等小学校行き八幡のほか、玉川や京西の友だち肩を並べて勉強をした。やはり1,300メートルくらいの道のり遠かったという。 一方補習教育希望する者は、夜間の八幡農商公民学校(のちに八幡商業公民学校)で学び、そこでは剣道科目があって警視庁師範大久保七段に指導受けて大いに力をつけたということである。 1923年大正12年)- 2階建て校舎増築した教室数6)。3月目蒲電鉄(現目黒線)が開通9月1日関東大震災発生。さらに移住者増える1927年昭和2年)- 児童数著しく増え始めた児童数464名。8月東京横浜電鉄東横線(現東急東横線)の渋谷駅 - 丸子多摩川駅間が開業1928年昭和3年)- 2階建て校舎増築した(4教室増加)。児童数505名。保護者会作られた。 八幡小学校校舎平屋建て2階建ての2棟で、平家校舎をみんなは豚小屋呼んでいた。講堂体育館はなく祝日の式の時は、2階教室2つぶち抜いて使っていた。 1931年昭和6年)- 児童数がますます増え新しく西側校舎(9教室増加)を作った1932年昭和7年)- 荏原郡東京市編入し校名東京市八幡尋常小学校となる。分教場奥沢1丁目に作り東玉川奥沢1丁目の大部分通学区域とした。 1933年昭和8年)- 分教場独立し奥沢尋常小学校(現奥沢小学校となった。古い1階建て教室数3)を壊し、6教室作った1938年昭和13年)- 尾山台尋常小学校(現尾山台小学校)が開校八幡小学校より3年生以下の児童男子65名、女子12名が転校した1941年昭和16年)- 国民学校令施行により校名東京市八幡国学校となる。 1943年昭和18年)- 都制敷かれ校名東京都八幡国学校となる。プール防火用水貯水池ができた。 1944年昭和19年)- 学校給食開始戦争空襲激しくなり、長野県飯田市第1次学童集団疎開をした。 1945年昭和20年)- 第2次3月)、第3次4月学童集団疎開をした。残留児童奥澤神社浄真寺分散授業行った5月学校給食中止終戦1946年昭和21年)- 学校給食が再び始まった主食を除く)。 1947年昭和22年)- 6・3制実施され義務教育6か年から9か年になった校名東京都世田谷区立八幡小学校となる。 1949年昭和24年)- 八幡中学校開校1950年昭和25年)- 学校完全給食が始まる。給食パン工場材料倉庫などが作られた。 1952年昭和27年)- 九品仏小学校開校八幡小学校より5年生以下の児童446名が転校した1958年昭和33年)- 鉄筋コンクリート3階建て校舎教室12)の工事が始まる。校舎移転のため「誉れ」が伐採された。 1962年昭和37年)- 「なかよしの像」が建てられた。 1966年昭和41年)- 校舎鉄筋完了1969年昭和44年)- 体育館新設プール改修行い建物がすべて鉄筋コンクリートとなった1970年昭和45年)- 同窓会奥澤神社境内に「八幡小学校発祥の地」の記念碑を建て、除幕式行った1971年昭和46年)- 新聞少年除幕式1979年昭和54年)- 創立100周年記念式。「未来を拓く」の石碑建てられた。八幡音頭作られた。校庭がレイコールドウォークトップになった1985年昭和60年)- 学童疎開先の長野県飯田市より記念品としてりんごの木贈られるトイレがすべて水洗式になった1986年昭和61年)- 都帰国子教育推進校(現ゆりの木教室)となる。 1988年昭和63年)- 帰国子女適応教室(現ゆりの木教室)が新設された。 1989年平成元年)- 文部省帰国子女教育推進地域センター校となる。 1993年平成5年)- 学級園(現八幡ファーム)を新設1996年平成8年)- BOP開室防災のための備蓄倉庫設置2003年平成15年)- 新BOP開設2007年平成19年)- 耐震補強工事2008年平成20年)- 校舎冷暖房機設置2012年平成24年)- 校舎改修工事開始2014年平成26年)- 校舎改修工事終了2016年平成28年)- 世田谷区特別支援教室通称すまいるルーム巡回開設2017年平成29年)- 世田谷区特別支援教室通称すまいるルーム拠点校開設

※この「八幡小学校の歴史」の解説は、「世田谷区立八幡小学校」の解説の一部です。
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