シュトゥットガルト室内管弦楽団
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シュトゥットガルト室内管弦楽団(独: Stuttgarter Kammerorchester)は、ドイツ・バーデン=ヴュルテンベルク州シュトゥットガルトに本拠を置く室内オーケストラである。
- 1 シュトゥットガルト室内管弦楽団とは
- 2 シュトゥットガルト室内管弦楽団の概要
シュトゥットガルト室内管弦楽団
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「カール・ミュンヒンガー」の記事における「シュトゥットガルト室内管弦楽団」の解説
第二次世界大戦が終結した1945年、ミュンヒンガーは自身のオーケストラを作りたいという思いを実行に移し、音楽好きの医者の助力を得ながらシュトゥットガルト室内管弦楽団を設立した。苦労も多く、「日々の金にもことかく有様」であったなかドイツとオーストリアから団員を集めたり、戦争で破壊された建物のなかから練習場所を探したり、指揮台を自作したりした。さらには楽譜を書き写す必要もあり、たまたま入手した、手稿の写真をコピーしたものを写譜したりしたが、この経験を通しミュンヒンガーは「原譜にできるだけ忠実に演奏すること」を志向するようになった。 特にミュンヒンガーは、バロック時代の段階的ディナーミック(テラッセン・ディナーミック)に関する理解を深めたと語っている。段階的ディナーミックとは、ミュンヒンガー曰くオルガンやチェンバロを意識したディナーミックのことで、ピアノからフォルテへの移行が連続的でなく断続的に行われるものであるとされる。ミュンヒンガーは「バッハと彼の同時代の人々は、これによってディナーミックの可能性が制限をうけているとは思っていなかったのです。テラッセン・ディナーミックは彼らにとってはそれ相応の内的必然性があったのです。彼らは、このディナーミックの法則をオーケストラにも、無伴奏合唱曲にも、適用していました」と述べており、バッハの演奏にはモダン・ピアノでなくチェンバロを使うべきだとしている。 ミュンヒンガーはシュトゥットガルト室内管弦楽団でこの知見を活かそうとしたが、当初はオーケストラから反発され、ストライキも生じたという。この時期についてミュンヒンガーは「いわゆる個人的で主観的な表現が、客観的な音楽現象に道を譲るようになるには数ヶ月の厳しい訓練が必要でした」と語っている。ミュンヒンガーのリハーサルは厳しく、パリでの練習を見学した読売新聞の記者は「見学しているこちらがつらくなる程だが、これだけ激しくきたえられるからこそ、あの見事なアンサンブルが生まれるのだとうなずける」と記している。また、海外ツアーにおいて逃亡する団員もいた。ミュンヒンガーは「規律による訓練が一番大切です。どの一人の独奏者もアンサンブルの中の自分の役割と、解釈された作品の内容をすみずみまで理解して演奏しなければならない。つまりオーケストラの全員が一体になって意思を完全に表現するのです。私は優秀なソリストと団員に助けられている」と語っている。 また、シュトゥットガルト室内管弦楽団はバロック・オーケストラを志向しており、「対位法的なものとか複雑なポリフォニーを透明に、明確に演奏することができない」とミュンヒンガーが評した「モダン・オーケストラ」とは一線を画すとされた。ミュンヒンガーは、バッハの時代は大きなオーケストラが用いられていなかった故に「バロック時代に大きな音は考えられていなかった」という意見であった。ミュンヒンガーは「私は二つの目的のために1945年(にオーケストラを)設立した。かつて私は大きなオーケストラを指揮していたがこれだと完全なアンサンブルを作り出す事ができない。心ゆくまでアンサンブルの練習をしたいというのが目的の一つだ。もう一つの目的は大きなオーケストラではバロックやウィーンの古典の本当の味が出せないことだ。私は2つの目的が達成されたと思っている」と語っている。 その結果、シュトゥットガルト室内管弦楽団の編成はヴァイオリン8人、ヴィオラ4人、チェロ3人、コントラバス1人の計16人となり、曲によって管楽器奏者が随時追加されたバッハ、ヘンデルなどのバロック時代の作品を中心に演奏し、オーケストラの編成が拡大したロマン派以降の作品は基本的に取り扱わなかったが、小編成用の新作を作曲家に依頼することはあり、フランク・マルタンが『パッサカリア』を作曲したりしている。なお、シュトゥットガルト室内管弦楽団は、作曲当時(バロック時代)と同様に20人前後で演奏するスタイルの先駆けであるとされている。 ミュンヒンガーとシュトゥットガルト室内管弦楽団は、イタリアのイ・ムジチ合奏団とともに第二次世界大戦後のバロック音楽ブームの火付け役であるとされている。両者の組み合わせは集客率も高く、音楽評論家の樋口隆一は、留学先のテュービンゲンの大学講堂で開かれたコンサートに「大学や街の重要人物の多数が出席」したと語っており、さらには「普通の演奏会ではついぞ会うことのなかった顔見知りの肉屋の夫婦」まで聴きにきていたという。シュトゥットガルト室内管弦楽団の首席ヴィオラ奏者を務めた林徹也曰く、ヨーロッパだけでなく世界中で同じような状況であったという。そのため、ドイツ領事館など、政治的な場で演奏をすることもあった。ローマ教皇、イギリス女王など、多くの君主や元首の前でも演奏している。 オーケストラは1948年にフランスへの演奏旅行を行い、1950年にはスペインとイギリスを訪れている。なお、ロンドンでの演奏会の際にはエーリヒ・クライバーが舞台裏を訪れ、演奏を称賛した。他にも中南米、イタリア、スイス、オランダ、ベルギー、インドなどを訪れている。1956年には西ドイツ政府の音楽使節として訪日し、読売新聞社が主宰し、ドイツ大使館が後援した全国ツアーで日本各地を訪れた。その際にはミュンヒンガー夫婦、マネージャーのフリードリッヒ・ベック、オーケストラメンバー共々歌舞伎座で菊五郎劇団の「なよたけ」を鑑賞している。また、広島の平和公園の原爆慰霊碑に詣で、原爆資料館を訪れたり、皇居内楽部で雅楽も鑑賞したりした。なお、日本での最終公演ではハイドン作曲の「告別」が演奏された。 1987年にミュンヒンガーは健康上の理由で音楽監督を辞し、1990年3月13日に死去した。なお、ミュンヒンガー死後の1995年には、結成50周年を記念したワールド・ツアーが行われた。
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