古墳 日本の古墳の体積と築造に要した労働力

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 古墳の解説 > 日本の古墳の体積と築造に要した労働力 

古墳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/03 01:02 UTC 版)

日本の古墳の体積と築造に要した労働力

必要労働力の推定

古墳には大小様々あり、その体積を計算すると、前方後円墳に限定しても約210万立方メートルの大仙陵古墳といった巨大なものから、約400立方メートルの小型のものまで差が大きい[22][23][24]。古墳の体積から必要労働力を推定した研究[25][26]はいくつかあるが、その中でも仁徳天皇陵とされる大仙陵古墳について大林組が算出したもの[27]が精緻である。

大林組による算定にあたり、いくつかの前提・推定が与えられている。

計画の前提条件
  1. 建設時期は現在(1985年)とし、仁徳天皇陵と全く同規模の墳墓を古代工法により再現する。
  2. 建設の範囲は墳丘・2重濠までとし、3重目の濠や陪塚は含まない。
  3. 工事は現代人が古代工法で行い、古代工法は古墳時代当時の土木工事に従う。
  4. 建設場所は現在の陵の敷地とし、地表は雑草・灌木に覆われた洪積台地とする。
  5. 客土材は陵の西側の土取り場より採取する。葺石は石津川から採取する。
  6. 工事関係者の労働条件・労働賃金などは現在の社会に従う。
施工条件
  1. 建設用工具は鉄製または木製のスキ、モッコ、コロを使用する。
  2. 労働者はピーク時で1日2000人とし、牛馬は使用しない。
  3. 作業時間は、1日8時間、ひと月25日間とする。
  4. 建設事務所は陵の敷地内、労務宿舎を客土採取場の中に置く。
その他前提条件
  1. 作業員数をピーク時で日当たり2000人と設定。
  2. 伐開除根面積は36.86万平方メートル。
  3. 墳丘土量140.5866万立方メートル、外濠掘削・盛土13.9万立方メートル、内濠掘削・盛土59.9万立方メートル、客土掘削・盛土74.2万立方メートル。
  4. 葺石536.5万個(1.4万トン)。
  5. 埴輪1.5万個。
  6. 葺石運搬のための水路を掘削。
  7. 埴輪の製造は工事見積もりに含まない。
見積もりした工程別の施工期間
  1. 伐開除根・地山均し:3.3か月。
  2. 測量・地割・丁張りほか:2.3か月。
  3. 外濠掘削・盛土:11.4か月。
  4. 内濠掘削・盛土:46.1か月。
  5. 客土掘削・盛土:103か月。
  6. 葺石運搬用水路掘削:5.2か月。
  7. 葺石採取・設置:142か月。
  8. 埴輪設置:48か月。
  9. 石室工事:6か月。
  10. 運搬路撤去:6.1か月。
  11. 後片付け:3.2か月。

総工期:15年8か月(並行工程があるため上記合計より短い)。

見積もりした工程別の作業員数
  1. 土掘削:67万人。
  2. 土運搬:446万人。
  3. 盛土:24.3万人。
  4. 伐開除根、測量、排水工事その他:43.4万人。
  5. 葺石採取と選別:8万人。
  6. 葺石運搬:9万人。
  7. 葺石設置:2.5万人。
  8. 埴輪工程:埴輪製造の作業員については不確定要素が多く除外。
  9. 施工管理:作業員10人に1人の世話役を配する労務編成を単位とし、ピラミッド型の階層構造になっていたと想定。

総作業員数:680.7万人。

総工費:796億円(1985年当時の貨幣価値)

設計値としての古墳の体積

上記の労働力推定の研究にとって、体積の把握が大前提となっている。

一方で、中国では、三国時代数学者劉徽が、著者不明の紀元前の数学書『九章算術』の数学問題の註釈本として263年に著した『九章算術』(※劉徽 註『九章算術』)の巻第5「商功」に、冥谷(地下式の墓室)の総体積・一人一日で運ぶ体積・人夫数を求める例題がある。263年と言えば日本では古墳時代の最初期に相当する。

原 文※字は旧字体約物は現代の補足。
今有冥谷、上廣二丈、袤七丈、下廣八尺、袤四丈、深六丈五尺。問、積幾何。荅曰、五萬二千尺。載土往來二百步、載輸之間一里、程行五十八里。六人共車。車載三十四尺七寸。問、人到積尺及用徒各幾何。荅曰、人到二百一尺五十分尺之十三、用徒二百五十八人一萬六十三分人之三千七百四十六。術曰、以一車積尺乘程行步數爲實。置今往來步數、加載輸之間一里、以車六人乘之爲法。除之、所得卽一人所到尺。以所到約積尺、卽用徒人數。 ──劉徽 註『九章算術』卷第五「商功」 [28]
書き下し文※字は新字体、文は文語体
今、冥谷有り、上広二丈、袤七丈、下広八尺、袤四丈、深六丈五尺。問う、積は幾何ぞ。答えに曰う、五万二千尺。土を載して往来すること二百歩、載輸の間一里、程行五十八里。六人、車を共にす。車に載すること三十四尺七寸。問う、人の到す積尺及び用徒、各々幾何ぞ。答えに曰う、人の到すこと二百一尺五十分尺の十三、用徒二百五十八人一万六十三分人の三千七百四十六。術に曰う、一車の積尺を以て程行歩数に乗じて実と為す。今の往来歩数を置き、載輸の間一里を加え、車六人を以て之に乗じて法と為す。之を除すれば、得る所は即ち一人の到す所の尺なり。到す所を以て積尺を約せば、即ち用徒の人数なり。[28]
口語解釈例※文は口語体。角括弧[ ]内は補足文。丸括弧( )内は解説文。
今、冥谷がある。上は広(※東西の長さ)2丈・袤(※南北の長さ)7丈、下は広(※東西の長さ)8尺・袤(※南北の長さ)4丈、深さ6丈5尺。問う、体積は如何ほどであるか。答えにいう、52000立方尺。[荷車に]土を積載して往復すること200歩、積み卸し分は1里、規程の仕事量は歩行距離58里である。6人で1台の荷車を共に使う。[1台の荷車の]積載量は34.7立方尺。問う、1人が運び出す体積及び必要な人夫の延べ人数は、それぞれ如何ほどであるか。答えにいう、1人が運び出す体積201+1350立方尺。必要人夫数258+374610063人。術にいう、荷車の積載量を規程の仕事量の歩数に掛けて、実とする。今の往来の歩数を置き、積み卸し作業分1里を加え、車6人をこれに掛けて、法とする。実を法で割ると、得られた値は、すなわち1人の運び出す体積である。その体積で冥谷の容積を割ると、すなわち必要人夫数になる。[28]

この内容から、古代中国では墳墓を築く際、その土木工事の施工計画に体積を用い、労働力の計算を実際に行っていたことを窺い知れる。日本でも古墳築造時において、設計値としての土量あるいは体積が、古墳の計画的築造を決定・把握する上で非常に重要な数値であったとする考え方がある[29]

「寿陵」説

なお、古墳自体の規模とその造営に必要な労働力や期間などを考慮して、古墳を寿陵(生前に構築した墓)とする説がある。『日本書紀』には仁徳天皇や蘇我蝦夷父子が生前より墓を築いていたと記されており、『筑後国風土記』逸文にも地元の大豪族筑紫君磐井が生前に墓を築いたとする記述があるからである。考古学の見地からも梅原末治[30]茂木雅博[31]らが寿陵説を唱え、現在では通説化している[32]


注釈

  1. ^ 藤原明衡 撰『本朝文粋』(1060年頃)。ここでの「古墳」は「古い墓」「古人の墓」の意[9]
    粤左相府、曩志内催、木幡古墳、草創新寺。 ──藤原明衡 『本朝文粋』 一三・浄妙寺塔供養咒願文(大江以言)[9]
  2. ^ 当時の中国語(漢語)との関係・由来についての資料は未確認。その問題とは別に、現代中国語では「古墳簡体字古坟)」といい、現代日本語の「古墳」とは同義語あるいは部分同義語の関係で、「古墳」や「古代の墓」を意味する[10]
  3. ^ ancient tomb mounds in Japan など。
  4. ^ 小林の伝世鏡論の筋道は、大体において以下のようなものである。中期や後漢の中国鏡が永く伝世されたものであることを最初に指摘した梅原末治の見解を継承した小林は、鏡の永年伝世行為は単なる秘蔵ではなく、鏡(宝器)の伝世こそは首長が宗教的信望を獲得し、その権威を保証されるという目的に使用されたと推測した。また、それは古墳が出現する前の時代の状況を表していると推定した。そしてこのように大事な鏡(宝器)を古墳に埋納するようになったのは、もはや鏡のもつ神威によって首長の権威が保証される必要がなくなったからであり、古墳の発生は新しい権威の象徴・表徴であると捉えた。
  5. ^ 同じ原形または同一の鋳型から鋳造された鏡。
  6. ^ 年輪年代法によって棺材料に使われたコウヤマキの実年代が確定すれば、被葬者の没年に近い年代を求めることができる[21]。現在、コウヤマキの暦年標準パターンは西暦22年から741年まで完成している[21]
  7. ^ このセクションでは、許可を下ろす側が主体ということで、「仁徳天皇陵(大仙陵古墳)」などといった、考古学的視点とは異なる皇族視点の記載方法を執った。
  8. ^ 例えば、かつての交野郡・現在の枚方市の地理的にも近い牧野と禁野にある車塚古墳車塚古墳。例えば、かつての滋賀郡・現在の大津市の地理的には遠い膳所と木の岡にある茶臼山古墳茶臼山古墳。ほかにも、枚挙にいとまがない。
  9. ^ 例えば、高崎市の倉賀野町と中大類町と柴崎町にある浅間山古墳と浅間山古墳と浅間山古墳は、後2者が元から同じ旧・大類村域にあった(※ただ、江戸時代には中大類村と柴崎村という別の村であった)ところに加えて倉賀野町が高崎市に編入されたことで、市内に「浅間山古墳」が3つも存在することになった。もっとも、倉賀野町の前身である倉賀野宿も、中大類村と柴崎村も、江戸時代には群馬郡西部の、上州高崎藩領内の集落で、その意味では最初からこの地域に重複して存在していた。

出典

  1. ^ a b 小学館『デジタル大辞泉』. “古墳”. コトバンク. 2020年2月18日閲覧。
  2. ^ a b c 三省堂大辞林』第3版. “古墳”. コトバンク. 2020年2月18日閲覧。
  3. ^ a b c ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』. “古墳”. コトバンク. 2020年2月18日閲覧。
  4. ^ a b c d e 大塚初重、小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』. “古墳”. コトバンク. 2020年2月18日閲覧。
  5. ^ a b 平凡社百科事典マイペディア』. “古墳”. コトバンク. 2020年2月18日閲覧。
  6. ^ a b c d e 日立デジタル平凡社世界大百科事典』第2版. “古墳”. コトバンク. 2020年2月18日閲覧。
  7. ^ a b c 小学館『精選版 日本国語大辞典』. “古墳”. コトバンク. 2020年2月18日閲覧。
  8. ^ 旺文社『旺文社日本史事典』3訂版. “古墳”. コトバンク. 2020年2月18日閲覧。
  9. ^ a b c 若桜木虔 (2019年9月5日). “こふん【古墳】”. 日国友の会. 2020年2月18日閲覧。
  10. ^ 古坟”. 日中対訳辞書. ウェブリオ株式会社. 2020年2月18日閲覧。
  11. ^ a b c 『日本古代史大辞典』 2006, 「古墳」.
  12. ^ kofun”. 英辞郎 on the WEB. アルク. 2020年2月18日閲覧。
  13. ^ ancient tomb mound”. Weblio辞書. ウェブリオ株式会社. 2020年2月18日閲覧。
  14. ^ mound”. 英辞郎 on the WEB. アルク. 2020年2月18日閲覧。
  15. ^ 日韓関係「戦後最悪」きっかけとなった歴史問題は古代にも!?”. TBS NEWS (2022年3月15日). 2022年3月16日閲覧。
  16. ^ 近藤義郎 2001 [要ページ番号]
  17. ^ 兵庫県の遺跡・遺物数の全国的な位置” (PDF). 公式ウェブサイト. 兵庫県教育委員会. 2020年2月17日閲覧。
  18. ^ 朝日新聞』2018年5月21日夕刊1総合. “古墳”. コトバンク. 2020年2月18日閲覧。
  19. ^ 最新全国古墳の数、多い順ランキング!(平成28年度調査)- 協会日記”. 古墳にコーフン協会 (2016年3月3日). 2020年2月17日閲覧。
  20. ^ 都出比呂志『竪穴式石室の地域性の研究』大阪大学文学部国史研究室、1986年
  21. ^ a b 光谷拓実 2004 [要ページ番号]
  22. ^ 石川昇 1983 [要ページ番号]
  23. ^ 石川昇 1984 [要ページ番号]
  24. ^ 石川昇 1985 [要ページ番号]
  25. ^ 梅原末治 1955 [要ページ番号]
  26. ^ 鈴木啓 1981 [要ページ番号]、ほか多数。
  27. ^ 大林組 1985 [要ページ番号]
  28. ^ a b c 武田時昌、張替俊夫、中国古算書研究会「『九章算術』訳注稿(16)」(PDF)『大阪産業大学論集 人文・社会科学編』第23号、大阪産業大学学会、2014年10月31日、72-73頁、2020年2月19日閲覧 
  29. ^ 藤井明夫 1988 [要ページ番号]
  30. ^ 梅原末治「応神・仁徳・履中三天皇陵の規模と造営」『宮内庁書陵部紀要』五(1955年)など。
  31. ^ 茂木雅博『古墳時代寿陵の研究』(雄山閣出版、1994年)
  32. ^ 若狭徹「前方後円墳の社会的機能に関する一考察」吉村武彦 編『律令制国家の理念と実像』八木書店、2022年 ISBN 978-4-8406-2257-8 P102-104.
  33. ^ 日本書紀巻第廿五 天萬豐日天皇 孝德天皇”. 日本書紀について. 2020年2月20日閲覧。
  34. ^ 松木武彦 2013, p. 73.
  35. ^ a b c 宮内庁-陵墓_2020閲覧.
  36. ^ a b c 宮内庁調査官が明かす「896の聖域」 天皇陵の真実 - エンタメ!歴史博士”. NIKKEI STYLE. 日本経済新聞社日経BP (2010年11月27日). 2020年2月18日閲覧。
  37. ^ 堺市_全国古墳大きさランキング_2019ed.
  38. ^ https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a174585.htm [リンク切れ]
  39. ^ a b 衆議院-第174回国会_20100603.
  40. ^ http://mainichi.jp/feature/news/20130220ddf007040010000c.html [リンク切れ]
  41. ^ 宮内庁、陵墓の立ち入り調査認める」『朝日新聞デジタル』朝日新聞社、2008年1月18日。[リンク切れ]
  42. ^ a b 応神陵に立ち入り調査 宮内庁、天皇陵で初の許可」『日本経済新聞』日本経済新聞社、2011年2月18日。2020年2月17日閲覧。
  43. ^ a b 竹田恒泰. “第9回 陵墓の調査は慎重に - 特集コラム「天皇弥栄」”. 北海道神宮. 2020年2月17日閲覧。
  44. ^ a b 卑弥呼の墓? 初の立ち入り調査 奈良・箸墓古墳 研究進展に期待」『日本経済新聞』日本経済新聞社、2013年2月20日。2020年2月17日閲覧。
  45. ^ (記事名:無記)」『読売新聞読売新聞社、2013年2月20日。[リンク切れ]
  46. ^ 今井邦彦(編集委員)「「天智天皇陵」、学会代表が初の立ち入り調査」『朝日新聞デジタル朝日新聞社、2015年2月20日。2020年2月17日閲覧。
  47. ^ 今井邦彦・栗田優美(編集委員)「22年ぶり「景行天皇陵」発掘調査 宮内庁が現場公開」『朝日新聞デジタル』朝日新聞社、2015年12月4日。2020年2月18日閲覧。
  48. ^ 宮内庁:仁徳天皇陵を発掘へ 今月下旬から堺市と共同で」『毎日新聞毎日新聞社、2018年10月15日。2020年2月17日閲覧。
  49. ^ 安藤健二「「仁徳天皇陵」初の共同発掘へ。「本当は誰の墓?」宮内庁に聞いてみた」『ハフポスト日本版』ハフポスト、2018年10月16日更新。2020年2月17日閲覧。
  50. ^ 仁徳天皇陵で円筒埴輪列を確認 築造に数十年のずれか 宮内庁と堺市が初の共同調査」『産経新聞産業経済新聞社、2018年11月22日。2020年2月17日閲覧。
  51. ^ 古代史:大山古墳で石敷きと埴輪確認 外部機関と初の発掘」『毎日新聞』毎日新聞社、2018年11月23日更新。2020年2月17日閲覧。
  52. ^ ヴィクター・ハリスほか 2003 [要ページ番号]
  53. ^ Gowland 1897.
  54. ^ Gowland 1898.
  55. ^ 宮川徏「森浩一の考古学 : 遺跡保存をめぐる実践と理念 (講演会「森浩一の考古学」講演録)」『同志社大学歴史資料館館報』第17号、同志社大学歴史資料館、2014年、9-24頁、doi:10.14988/pa.2017.0000015508NAID 120006319032 
  56. ^ ドコモ関西、無届けの基地局工事で大阪の古墳を破壊”. ITmedia Mobile. 2023年6月10日閲覧。
  57. ^ Kenyon 2005, pp. 9–10.
  58. ^ 古墳から城、そして祭場へ ~場の転用についての考察~ 著:群馬県立高崎北高校 JRC 部歴史研究班
  59. ^ 犬山市 教育部 歴史まちづくり課 (2016年12月21日更新). “史跡 青塚古墳”. 公式ウェブサイト. 犬山市. 2020年2月17日閲覧。
  60. ^ 東近江市教育委員会 埋蔵文化財センター (2011年3月). “後藤館跡 - 東近江市の遺跡シリーズ3” (PDF). 公式ウェブサイト. 東近江市. 2020年2月17日閲覧。
  61. ^ 森田克行 2003, pp. 139–148.
  62. ^ 葛原克人・古瀬清秀, p. 32.
  63. ^ 松原市 市長公室 秘書広報課 (2018年12月13日更新). “8 大王墓の河内大塚山古墳”. 公式ウェブサイト. 松原市. 2020年2月17日閲覧。
  64. ^ 岸和田市 生涯学習部 郷土文化課 (2018年7月2日). “久米田古墳群(くめだこふんぐん)説明板”. 公式ウェブサイト. 岸和田市. 2019年5月22日閲覧。
  65. ^ 大山古墳墳丘部崩形にみる尾張衆黒鍬者の関わりからの検討 著:川内眷三 四天王寺大学紀要 第54号(2012年9月)
  66. ^ 松本弥 2011 [要ページ番号]
  67. ^ 古墳の石材→城の石垣に?石室に破壊跡 地元には伝承が:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞デジタル. 2022年3月4日閲覧。
  68. ^ 『愛知県史 資料編3』 p.675
  69. ^ 頑丈な石室弾薬庫や防空壕に 戦時中の重定古墳と楠名古墳 うきは市”. 西日本新聞me. 2022年3月5日閲覧。
  70. ^ 安富古墳 文化遺産オンライン”. bunka.nii.ac.jp. 2022年3月4日閲覧。
  71. ^ 旧日本軍施設?防空壕? - 板壁で小部屋のような遺構/天理・ノムギ古墳|奈良新聞デジタル”. www.nara-np.co.jp. 2022年3月4日閲覧。
  72. ^ 古墳めぐりコース”. 2022年3月4日閲覧。
  73. ^ 東赤坂古墳|高松市”. www.city.takamatsu.kagawa.jp. 2022年3月4日閲覧。





英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「古墳」の関連用語

古墳のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



古墳のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの古墳 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS