古墳
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学術調査
未盗掘古墳
未盗掘古墳とは、人が埋葬された状態のまま、一度も盗掘されていない古墳をいい、発見されるのは稀である。未盗掘古墳の重要性は、遺物と遺構の位置関係(どの遺物が、どの遺構のどの場所に、どのような形で副葬されていたか)を当時のまま伝えてくれるところにあり、その情報が記録されていなければ価値を大きく損ねてしまう。また、複数の埋葬施設を有する古墳では、そのいくつかが未盗掘状態で残されていることがあり、そのような場合は「準未盗掘古墳」などと呼ばれる[34]。
古墳が盗掘されることなく残されたパターンは、次の二つがある。一つはそこが古墳であると認知されていなかったというパターンで、中世に山城として利用された滋賀県雪野山古墳などが当てはまる。もう一つは、様々な理由で掘ることができなかったというパターンで、墓守によって守られていた(※例:奈良県藤ノ木古墳)、地震などによって石室が崩落していた(※例:群馬県綿貫観音山古墳、奈良県黒塚古墳)、墳頂からかなり深い場所に埋葬施設があった(※例:茨城県三昧塚古墳、岡山県勝負砂古墳)などがある。また、最近の調査では、未盗掘またはほぼ未盗掘であることが判明した場合、あえて発掘せずに埋め戻すこともあり、2010年(平成22年)に調査された兵庫県長尾山古墳などはその一例である。
宮内庁管理下陵墓
天皇・皇后・皇太后が埋葬されている御陵と皇族の埋葬されている御墓を合わせた陵墓と、陵墓の参考地は、近代以降現在では宮内庁(以前はその前身機関)が管理下に置いている。宮内省および後身の現・宮内庁は管理下になる陵墓について、学術調査を含む一切の立ち入りを厳しく制限しており、日本史研究会や歴史学研究会等の学術団体の調査要求であっても基本的に拒否の方針を執ってきた。発掘許可がほとんど下りることなく、下りたとしても極めて限定された範囲に抑えられているため、係る分野の考古学研究は重要な部分の知見を欠いたままでの発展を余儀なくされてきた。なお、陵墓の埋葬者の比定は江戸時代の儒学者・国学者などの手による文献研究を踏襲し、明治時代に宮内省が決定したもので、その後の考古学研究の進展により、緻密な編年作業が進展し、考古学者の比定と齟齬が生じているものも見られるようになった。
宮内庁が管理する陵墓は、近畿地方を中心に、北は山形県から南は鹿児島県までの1都2府30県に亘って分布している[35]。2020年(令和2年)時点での内訳は、陵188、墓555、分骨所・火葬塚・灰塚など陵に準ずるもの42、髪歯爪塔など68、陵墓参考地46、総計899に及ぶ[35](※2010年〈平成22年〉時点では総計896であった[36]。箇所数としては、同域のものを一つと捉えることから、460箇所を数える(2020年時)[35]。
宮内庁が管理する陵墓を墳丘長の長いほうから順に挙げれば、以下のとおり[36][注 7]。 内容は、左から順に、1. 宮内庁管理下の墳墓のランキング[36]、2. ( )丸括弧内に宮内庁管理外の古墳も含めた全国ランキング[37]、3. 考古学的名称、4. 墳丘の全長。
- 第1位(第1位) 大仙陵古墳 525m
- 第2位(第2位) 誉田御廟山古墳 425m
- 第3位(第3位) 上石津ミサンザイ古墳 365m
- 第4位(第6位) 見瀬丸山古墳 310m
- 第5位(第8位) 渋谷向山古墳 300m
- 第6位(第11位) 箸墓古墳 280m
- 第7位(第12位) 五社神古墳 275m
宮内庁は式年祭等の祭祀を現在も行っており「陵墓の静安と尊厳の保持」等の理由で[38][39]補修時の限定的な見学を除いて陵墓の学術調査を規制していた[39]。しかし、2005年(平成17年)に日本考古学協会などの15の学会が調査を認めるよう要請したことを受け[40]、2007年(平成19年)1月に陵墓管理の内規を改め、墳丘部への立ち入りや写真撮影を認めるようになった[41]。最初に許可が下りて調査されたのは、2008年(平成20年)2月に実施された神功皇后陵(五社神古墳)[42]であった。その後、3基を経て、2011年(平成23年)2月18日には応神天皇陵(誉田御廟山古墳)に天皇陵で初めての許可が下され[42][43]、同月24日に調査された[43]。2013年(平成25年)2月20日午前実施の倭迹迹日百襲姫命大市墓(箸墓古墳)[44]、同日午後実施の手白香皇女衾田陵(西殿塚古墳)[44]など、この日までに9つの陵墓で立ち入り調査が行われている[45]。2015年(平成27年)2月20日には天智天皇陵(御廟野古墳)の調査が[46]、同年12月4日には景行天皇陵(渋谷向山古墳)の調査が行われた[47]。2018年(平成30年)10月15日にはユネスコ世界遺産(cf. 百舌鳥・古市古墳群)に登録されて間もない仁徳天皇陵(大仙陵古墳)に許可が下され[48][49]、11月22日に宮内庁と堺市が共同で発掘調査を実施したが、これは(前身機関も含めて)宮内庁が外部機関と共同で行う初めての発掘調査となった[50][51]。 研究者は陵墓の文化財としての側面を認めるものとして歓迎しており、発掘を含めさらに調査を拡大するように求めている。
研究者
- 蒲生君平(1768年 - 1813年)
- ウィリアム・ゴーランド(1842年 - 1922年) [52]
- 明治政府がイギリスより大阪造幣寮(現・造幣局)に招聘した化学兼冶金技師で、明治5年(西暦換算:1872年)から1888年(明治21年)にかけての16年に亘る滞日中に、本務の余暇をみてはこつこつと古墳研究を進めていった。当時の日本人のほとんどは彼の研究の内容と意義を知らなかったが、のちに「日本考古学の父」と讃えられることとなる。ゴーランドは帰国して9年後の1897年に "The dolmens and burial mounds in Japan(和題:日本のドルメンと古墳)"を、次いで翌1898年に "The Dolmens of Japan and their Builders(和題:日本のドルメンとその築造者)" を発表した[53][54]。日本の古墳のなかでもとりわけゴーランドを惹きつけたのは、巨石を使って構築された横穴式石室であった。彼が調査した横穴式石室は460基で、そのうち実測図を作成してデータを計測したのは130基であった。調査地域は九州から関東地方の15府県に亘っている。
注釈
- ^ 藤原明衡 撰『本朝文粋』(1060年頃)。ここでの「古墳」は「古い墓」「古人の墓」の意[9]。粤左相府、曩志内催、木幡古墳、草創新寺。 ──藤原明衡 『本朝文粋』 一三・浄妙寺塔供養咒願文(大江以言)[9]
- ^ 当時の中国語(漢語)との関係・由来についての資料は未確認。その問題とは別に、現代中国語では「古墳(簡体字:古坟)」といい、現代日本語の「古墳」とは同義語あるいは部分同義語の関係で、「古墳」や「古代の墓」を意味する[10]。
- ^ ancient tomb mounds in Japan など。
- ^ 小林の伝世鏡論の筋道は、大体において以下のようなものである。漢中期や後漢の中国鏡が永く伝世されたものであることを最初に指摘した梅原末治の見解を継承した小林は、鏡の永年伝世行為は単なる秘蔵ではなく、鏡(宝器)の伝世こそは首長が宗教的信望を獲得し、その権威を保証されるという目的に使用されたと推測した。また、それは古墳が出現する前の時代の状況を表していると推定した。そしてこのように大事な鏡(宝器)を古墳に埋納するようになったのは、もはや鏡のもつ神威によって首長の権威が保証される必要がなくなったからであり、古墳の発生は新しい権威の象徴・表徴であると捉えた。
- ^ 同じ原形または同一の鋳型から鋳造された鏡。
- ^ 年輪年代法によって棺材料に使われたコウヤマキの実年代が確定すれば、被葬者の没年に近い年代を求めることができる[21]。現在、コウヤマキの暦年標準パターンは西暦22年から741年まで完成している[21]。
- ^ このセクションでは、許可を下ろす側が主体ということで、「仁徳天皇陵(大仙陵古墳)」などといった、考古学的視点とは異なる皇族視点の記載方法を執った。
- ^ 例えば、かつての交野郡・現在の枚方市の地理的にも近い牧野と禁野にある車塚古墳と車塚古墳。例えば、かつての滋賀郡・現在の大津市の地理的には遠い膳所と木の岡にある茶臼山古墳と茶臼山古墳。ほかにも、枚挙にいとまがない。
- ^ 例えば、高崎市の倉賀野町と中大類町と柴崎町にある浅間山古墳と浅間山古墳と浅間山古墳は、後2者が元から同じ旧・大類村域にあった(※ただ、江戸時代には中大類村と柴崎村という別の村であった)ところに加えて倉賀野町が高崎市に編入されたことで、市内に「浅間山古墳」が3つも存在することになった。もっとも、倉賀野町の前身である倉賀野宿も、中大類村と柴崎村も、江戸時代には群馬郡西部の、上州高崎藩領内の集落で、その意味では最初からこの地域に重複して存在していた。
出典
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