古墳 概要

古墳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/11 06:03 UTC 版)

概要

考古学者・松本豊胤は「ため池造成や水田経営を積極的に進めた豪族たちが、自らが開発した地域を見渡せる場所に古墳を造営していった」と説明している。

古墳は、規模や化粧方法の違いによって類別されるほか、その平面形状、さらに埋葬の中心施設である主体部の構造形態によって細かく分類編年されている。

墳丘の築造にあたっては、盛り土部分を堅固にするため砂質土や粘性土を交互につき固める版築工法で築成されるものも多いこと、こうした工法は飛鳥時代奈良時代に大規模な建物の基礎を固める工法として広く使用されていることが、修繕時の調査などで判明している。

北海道式古墳として末期古墳がある。7世紀から10世紀に東北地方北部や北海道で造られた墳墓で、「蝦夷塚」とも呼ばれる。

大韓民国(韓国)南西部でも前方後円墳とよく似た形の古墳が多数見つかっており、日本から朝鮮半島に渡ってきた有力者らが埋葬されているものと推測されている[15]

発生

古墳は、規模・形状、およびその他の要素において、弥生時代初期の墓制と比べると大きく異なり、弥生墳丘墓からも発展している。古墳は、特定少数の埋葬法であり、同時代の集団構成員の墓と大きく隔たっており、地域的にも不均等に出現する。古墳の発生は、墓制の単なる変化や葬送観念の変化にとどまらず、社会・政治の全般に関わる問題として現れた。

古墳発生の問題は、戦前から議論されていた。その中で、この問題を日本古代国家の形成途上における政治史の課題として位置づけたのは小林行雄であった。具体的には、伝世鏡論[注 4]同笵鏡[注 5]論を展開した。この両論に疑問を表明したのは後藤守一原田大六森浩一、伝世鏡論に疑問や同笵鏡の分有関係の解釈について斎藤忠、系統的・理論的に批判した内藤晃、鏡の賜与だけをもって大和政権と地方首長との政治関係の成立を考察するのは困難とする西嶋定生などがいた[16]

所在地・数

ここでは、日本における周知の古墳の数について解説する。周知の古墳は「周知の埋蔵文化財包蔵地」の代表的な一つであり、未調査・未認定のものが加わったり破壊されて消滅することによって数が変動する。

  • 周知の古墳の数(都道府県別) - 2001年度(平成13年度)末付け、文化庁発表[17]
  • 周知の古墳の数(都道府県別) - 2017年度(平成29年度)末付け、文化庁、2018年(平成30年)5月21日発表[18]
    • 第1位 兵庫県(17,647基)、第2位 鳥取県(12,546基)、第3位 京都府(11,556基)、第4位 岡山県(11,038基)、第5位 千葉県(10,494基)。

都道府県別で最も数が多いのは兵庫県であり、この順位が変動する可能性は目下のところ低い。しかし2位以下は大きな変動を見せている。また、北海道青森県沖縄県には消滅したものも含めて1基も存在しないとする研究者がいる[19]一方で、それらの地域にも古墳の存在を認める研究者もいる(※『日本の古墳一覧』は後者説に基づく)。

形状

古墳のコンピュータグラフィックと外観写真
左は現況の3DCG仲ツ山古墳(5世紀造営。藤井寺市沢田に所在)の全周画像である。中央と右は現在の仲ツ山古墳の外観写真。
埴輪も含めて往時の姿を復元された五色塚古墳(4世紀末-5世紀初頭。神戸市垂水区五色山に所在)は、日本で最初に復元整備が行われた古墳である。

日本の古墳には、基本的な形の円墳方墳を始め、長方形墳、六角墳、八角墳天武・持統天皇陵)・双方中円墳櫛山古墳楯築古墳)・上円下方墳・双方中方墳(明合古墳)・帆立貝形古墳乙女山古墳)などの種類がある。また、前方後円墳前方後方墳・双円墳(金山古墳)・双方墳(二子塚古墳)などの山が2つある古墳もある。主要な古墳は、山が2つあるタイプの古墳であることが多い。その他、墳丘を石で構築した積石塚、石室に線刻、絵画などを施した装飾古墳、石室の壁に絵画を細越した壁画古墳(高松塚古墳キトラ古墳)、埋葬施設の一種である横穴などがある。

死者が葬られる埋葬施設には、様々な形状が見られる。

古墳は、「不樹(きうゑず)」すなわち木を植えず、大規模に封じて(土を盛って)造成された。完成後は手を加えがたいあるいは足すら踏み入れがたい神域のような区域になり、何らかの思想を背景にあえてそうしたのか、単に放置するしかなかったがゆえかは分からないが、盛られた土壌を苗床にして自然の植生が施設全体を覆ってゆくに任せる状態になる。長い時間の経過により、あたかも自然丘陵のようになる。つまり、往時の古墳は自然豊かな環境の中に忽然と現れた巨大な幾何学的人工構造物であったが、今ではほとんどの古墳が植生豊かな自然の領域に変容している。周辺が民家やビルの建ち並ぶ市街地になった古墳も多く、そういった古墳は往時とは正反対に、人工構造物に囲まれた緑地になっている。なお、五色塚古墳森将軍塚古墳のように造成当時の状態に復元されたものもある。

埋葬施設

古墳に用いられる埋葬施設には、竪穴系のものと横穴系のものとがある。

高塚山1号墳の石室/元は兵庫県神戸市垂水区多聞町に分布する高塚山古墳群に属していた古墳の石室で、西神中央公園(神戸市西区糀台6丁目所在)に移されたもの。

竪穴系のものは、築造された墳丘の上から穴を掘り込み(墓坑/墓壙;ぼこう)、その底に棺を据え付けて埋め戻したものである。基本的にその構造から追葬はできず、埋葬施設内に人が活動するような空間は無い。竪穴式石槨粘土槨箱式石棺木棺直葬などがある。このうち、竪穴式石槨は、墓坑の底に棺を設置した後、周囲に石材を積み上げて壁とし、その上から天井石を載せたものである。古墳時代前期から中期に盛行する。畿内吉備地方の前期古墳では被葬者の頭位の「北向き」が多いとされ、中国戦国時代の王侯の墓は北枕で『礼記』にも規定があることから、中国思想の影響とする説がある[20]粘土槨は、墓坑底の木棺を粘土で何重にもくるんだもので、竪穴式石槨の簡略版とされる。古墳時代前期中頃から中期にかけて盛行した。箱式石棺は、板状の石材で遺骸のまわりを箱状に囲いこむもので、縄文時代以来の埋葬法である。木棺直葬は、墓坑内に顕著な施設を造らずに木棺を置いただけのもので、弥生時代以来の埋葬法である。

横穴系のものは、地上面もしくは墳丘築造途上の面に構築され、その上に墳丘が造られる。横穴式石室横口式石槨などがある。横穴式石室は、通路である羨道部と埋葬用の空間である玄室部をもつ。石室を上から見たとき、羨道が玄室の中央につけられているものを「両袖式」、羨道が玄室の左右のどちらかに寄せて付けられているものを「片袖式」と呼ぶ。玄室内に安置される棺は石棺・木棺・乾漆棺など様々である。玄室への埋葬終了後に羨道は閉塞石(積み石)や扉石でふさがれるが、それを空ければ追葬が可能であった。古墳時代後期以降に盛行する。横口式石槨は、本来石室内に置かれていた石棺が単体で埋葬施設となったもので、古墳時代終末期に多く見られる。

古墳時代には死者を棺に入れて埋葬した。棺の材料によって、木棺[注 6]石棺陶棺乾漆棺などがある。

木棺のうち、刳り抜き式のものは、巨木を縦に2つに割って、それぞれの内部を刳り抜き、蓋と身とが作られたものと考えられ、「割竹形木棺」と呼び習わされている。ただ、巨木を2つに割るとはいうものの、竹を2つに割るように簡単にはいかないので、用語として適切かどうかを指摘する者[誰?]もいる。次に、「組合式」といわれる木棺は、蓋、底、左右の側板、計四枚の長方形の板と、前後の方形の小口板、時には別に仕切り板が付くこともあるが、2枚とを組み合わせて作った。木棺は、土に埋め土を被せていた。


注釈

  1. ^ 藤原明衡 撰『本朝文粋』(1060年頃)。ここでの「古墳」は「古い墓」「古人の墓」の意[9]
    粤左相府、曩志内催、木幡古墳、草創新寺。 ──藤原明衡 『本朝文粋』 一三・浄妙寺塔供養咒願文(大江以言)[9]
  2. ^ 当時の中国語(漢語)との関係・由来についての資料は未確認。その問題とは別に、現代中国語では「古墳簡体字古坟)」といい、現代日本語の「古墳」とは同義語あるいは部分同義語の関係で、「古墳」や「古代の墓」を意味する[10]
  3. ^ ancient tomb mounds in Japan など。
  4. ^ 小林の伝世鏡論の筋道は、大体において以下のようなものである。中期や後漢の中国鏡が永く伝世されたものであることを最初に指摘した梅原末治の見解を継承した小林は、鏡の永年伝世行為は単なる秘蔵ではなく、鏡(宝器)の伝世こそは首長が宗教的信望を獲得し、その権威を保証されるという目的に使用されたと推測した。また、それは古墳が出現する前の時代の状況を表していると推定した。そしてこのように大事な鏡(宝器)を古墳に埋納するようになったのは、もはや鏡のもつ神威によって首長の権威が保証される必要がなくなったからであり、古墳の発生は新しい権威の象徴・表徴であると捉えた。
  5. ^ 同じ原形または同一の鋳型から鋳造された鏡。
  6. ^ 年輪年代法によって棺材料に使われたコウヤマキの実年代が確定すれば、被葬者の没年に近い年代を求めることができる[21]。現在、コウヤマキの暦年標準パターンは西暦22年から741年まで完成している[21]
  7. ^ このセクションでは、許可を下ろす側が主体ということで、「仁徳天皇陵(大仙陵古墳)」などといった、考古学的視点とは異なる皇族視点の記載方法を執った。
  8. ^ 例えば、かつての交野郡・現在の枚方市の地理的にも近い牧野と禁野にある車塚古墳車塚古墳。例えば、かつての滋賀郡・現在の大津市の地理的には遠い膳所と木の岡にある茶臼山古墳茶臼山古墳。ほかにも、枚挙にいとまがない。
  9. ^ 例えば、高崎市の倉賀野町と中大類町と柴崎町にある浅間山古墳と浅間山古墳と浅間山古墳は、後2者が元から同じ旧・大類村域にあった(※ただ、江戸時代には中大類村と柴崎村という別の村であった)ところに加えて倉賀野町が高崎市に編入されたことで、市内に「浅間山古墳」が3つも存在することになった。もっとも、倉賀野町の前身である倉賀野宿も、中大類村と柴崎村も、江戸時代には群馬郡西部の、上州高崎藩領内の集落で、その意味では最初からこの地域に重複して存在していた。

出典

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