ギリシア文字 概要

ギリシア文字

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/05 00:44 UTC 版)

概要

ギリシア文字は、古代ギリシア人ギリシア語を表記するため、フェニキア文字を元に作った文字である。ラテン文字キリル文字は、このギリシア文字を元に、後に生まれたものである。今日でも現代ギリシア語の表記に用いられ、また非ギリシア語圏でも、(形式科学の)数学、(自然科学の)物理学、天文学のバイエル符号など、様々の分野で使われている。

アルファベット」という言葉は、この文字体系の伝統的配列の1番目(アルファ)と2番目(ベータ)の文字名称が、その語源である。各文字の日本語慣用名称は、主として英語式発音に由来する。例えば、Π は、古代ギリシア語では「ペー」と発音するが、日本では一般に「パイ」と読まれる。これは英語の pi [paɪ] に倣ったものである。

21世紀初頭において、ギリシア文字を言語の表記に使用するのはギリシア語のみである。このため、使用地域はギリシア語を公用語とするギリシアキプロス、およびギリシア人の居住する近隣地域に限られている。

歴史

古代の地域による字体の違い

ギリシア文字以前には、線文字B、またはミュケナイ文字と呼ばれている文字体系の使用もみられるが、これは仮名文字と同じく音節文字で、音節構造の複雑なギリシア語の表記には必ずしも適さないものであった。ギリシア文字の案出は、紀元前9世紀ごろまで遡ると考えられている。その元となった、セム語派フェニキアが使用していたフェニキア文字アブジャドであり、文字は子音ばかりの22文字であった。これは、セム諸語が子音に言語の核を置き、母音は補助的な役割しかもたないためである。一方、ギリシア語においては、母音は極めて重要な位置を占める。そこで、ギリシア語発音にはない音価を持つA、E、O、Y、Iの5つのフェニキア文字を、母音を表す音素文字に転用する[1]など、さまざまな改良が加えられた。この改良によってギリシア文字は母音と子音がそれぞれ文字を持つ、いわゆるアルファベットとなった。文字表はフェニキア文字(最後の文字は「Τ」)の後ろに、Υ /u/、Φ、Χ、Ψ、Ω を追加している。またギリシアの地域により一部異なる音素文字・字体が使われた。イオニアやアッティカコリントスなどのギリシア本土の大部分や東方諸地域全般においては現代のギリシア文字体系につながる東方ギリシア文字が使用されたが、一方エウボイア島やクマエを中心とするイタリア半島のギリシア植民市など、ギリシア世界の西方においては西方ギリシア文字(エウボイア文字、クマエ文字)が使用された。この西方ギリシア文字はイタリア半島の諸民族に伝わってエトルリア文字やラテン文字などの古イタリア文字群の原型となったが、紀元前4世紀ごろにはイオニア式のアルファベットに吸収されて姿を消した。

古代ギリシア語では、文章を書く方向が一定せず、右から左、または牛耕式に書かれた[2]。右から左へ書かれるときと、左から右で書かれるときでは文字は左右裏返しになった(鏡文字)。西のエトルリア語ウンブリア語ファリスク語などは右から左に固定して書かれた[3]。紀元前500年ごろには左横書き(左から右)で行は上から下に移動するという書式で統一され[2]、現在に至る。

ギリシア文字においては、フェニキア文字の6番目である ワウを分化させ、そのまま [w] を表す場合と [u, uː][注釈 1]を表す場合とで異なる字形とし、字母表上は前者(ϝ、ディガンマ)をフェニキア文字と同じ6番目の位置に置き、後者(Υ)を「Τ」の後に置いた[4]。「Υ」より後の「Φ・Χ・Ψ」の起源については議論が分かれる[5]。「Φ・Χ・Ψ」および「Ξ」は地方によって音が異なり、東方では Ξ [ks]、Φ [pʰ]、Χ [kʰ]、Ψ [ps] であったが、西方では Φ [pʰ]、Χ [ks]、Ψ [kʰ](Ξ は使用せず、[ps] は ΦΣ と書く)であった[6]

紀元前6世紀になると、イオニアミレトスで、長母音エー・オーを表す新しい文字が作られた。イオニア方言には [h] が存在しなかったので、本来 [h] を表していた「Η」を長母音エーのために使用し、オーを表すためには新しい字「Ω」を作った[5]アテネでは紀元前403年にこのイオニア式のアルファベットを公式に採用した[2]。それ以外の地域でも紀元前4世紀前半にはイオニア式を採用するようになった。

イオニア式に統一される以前は地方ごとに異なる文字が使われていた。「ディガンマ」(「スティグマ」)、「ヘータ」、「サン」、「コッパ」、「サンピ」といった文字は、古典期には廃れた古い時代のもので、その後は数を表記する場合にのみ使われる(サンを除く)。

古代には大文字のみで、また筆記体もない。その後、4世紀には丸みを帯びたアンシャル体が現れた。9世紀以降に小文字が案出され、東ローマ帝国時代の文書には筆記体も見られる。現代ギリシアでは、あまり筆記体を用いないようである。1470年代にイタリアでギリシア文字は活版印刷されるようになり[6]、このとき古代の碑文に見える大文字と中世以降の小文字を組み合わせた。各大文字には1つの小文字が対応するが、「シグマ」のみ例外的に2つの小文字を持つ。語頭・語中の場合 σ、語尾の場合には ς が用いられる。例えば ΘΕΟΣ(神)を小文字で表記すると、θεοσ とならずに、θεος となる。今日、古代ギリシア語を表記する場合、すべて大文字、すべて小文字、大文字と小文字の併用のいずれでも特に構わない。現代ギリシア語では、文頭と固有名詞の語頭に大文字、それ以外を小文字で表記することが基本である。無論、ラテン文字と同様、すべて大文字にしても誤りではない。

ヘレニズム時代以降、発音を正確に表すためにダイアクリティカルマークが発達した。古代ギリシア語を表記する場合、3種のアクセント記号(鋭アクセント・重アクセント・曲アクセント)や気息記号をつける。ただし、すべて大文字の場合は何もつけない。現代ギリシア語には h 音が存在しないため気息記号は用いられず、古代ギリシア語と異なって高低アクセントではないため、1980年代以降はアクセント記号は強勢の位置を表すトノス ( ´ ) とトレマに相当するディアリティカ ( ¨ ) の2種類だけに簡略化された。

ギリシア文字は数を表す際にも使われる。「イオニア式」と呼ばれる記数法は、アラビア数字のような専用の文字を用いず、通常のギリシア文字を使ってこれを表した。たとえば、1は αʹ、10は ιʹ で表し、11は ιαʹ である。6を表す「スティグマ」は、「シグマ」の語末形と形態が酷似しているため、現代ではこれを「シグマ」と呼ぶこともあり、また6を表す場合に代用されることもある。

発音

古代ギリシア語と現代ギリシア語では発音体系が著しく異なり、このため各文字の音価も異なる。古代の音価は、現代の言語学の研究によって推測されている紀元前5世紀ごろのアッティカ地方の音である。古代ギリシア語ではおおむね文字と発音の関係は1対1だったが、例外として α ι υ は長母音と短母音の両方を表した。ει[eː] [ei] の両方の音を表した。ου[oː] [ou] の両方を表していたが、後に [uː] に変化した。単独の υ[y(ː)] だったが、αυ ευυ[u] だった。γκ χ γ の前では [ŋ] を表し、σ は有声子音の前では [z] と発音した。ζ[zd][dz] のどちらであったかは議論が分かれる。

これとは別に、しばしば「古典的」と呼ばれる発音体系に、エラスムス式発音(: Erasmian pronunciation)がある。これは16世紀の人文学者エラスムスによって整理されたものを元にしている(地域によって、幾つかバリエーションがある)。実際の古代の発音とはかなり異なるものもあるが、古代ギリシア語が死語である以上、元来の発音に拘泥する必要はなく、こちらの発音を用いることも多い。例を挙げれば、Φ の古代アッティカ発音は [pʰ]有気音[p])と推測されるが、エラスムス式では [f] である。

現代ギリシアでは、古代の文章でも、現代の発音体系で読まれる。これは、日本人が古典文学を現代日本語発音で読むのと同じである。

現代ギリシア語では φ θ χ β δ γ[f θ x v ð ɣ] のように摩擦音になっており(χ γ は前舌母音の前では [ç ʝ] になる)、有声閉鎖音は μπ ντ γκ のように表す。同じ母音を表すのに複数のつづり方があり、これらは歴史的発音にしたがってつづり分けられる。また、αυ ευυ は、[f](有声音が後続するときは [v])と発音する。

音声記号は国際音声記号 (IPA) による。

母音 つづり
a α
i ι υ η ει οι
u ου
e ε αι
o ο ω

注釈

  1. ^ 後に [y, yː] に変化した。
  2. ^ 現代では「Λ」はλάμβδαlambda)と読むが、古典ギリシア時代 (510–323 BC) には「μ」がなくλάβδα(labda)と読んだ。
  3. ^ Unicode には文字様記号として U+2126 にオーム記号が定義されているが、ギリシア文字のオメガを使うのが望ましいとする。Letterlike Symbols”. The Unicode Consorcium. 2015年5月29日閲覧。

出典

  1. ^ 「ビジュアル版 世界の文字の歴史文化図鑑 ヒエログリフからマルチメディアまで」p241 アンヌ=マリー・クリスタン編 柊風舎 2012年4月15日第1刷
  2. ^ a b c Threatte (1996) p.271
  3. ^ Swiggers (1996) p.263
  4. ^ Allen (1986) p.47
  5. ^ a b Swiggers (1996) p.265
  6. ^ a b Threatte (1996) p.272
  7. ^ Allen (1986) p.69,79
  8. ^ a b c d e Allen (1986) p.169
  9. ^ 「ビジュアル版 世界の文字の歴史文化図鑑 ヒエログリフからマルチメディアまで」p266 アンヌ=マリー・クリスタン編 柊風舎 2012年4月15日第1刷
  10. ^ 『図説 世界の文字とことば』 町田和彦編 26頁。河出書房新社 2009年12月30日初版発行 ISBN 978-4309762210
  11. ^ 「ビジュアル版 世界の文字の歴史文化図鑑 ヒエログリフからマルチメディアまで」p273 アンヌ=マリー・クリスタン編 柊風舎 2012年4月15日第1刷






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