阿部みどり女
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/26 05:26 UTC 版)
略歴
- 北星女学校(現北星学園女子中学高等学校)修了[1]。
- 1910年:阿部卓爾と結婚して東京に住むが、結核のため鎌倉で療養[1]。この頃から俳句を始める[1]。
- 1915年:高浜虚子に師事、以後「ホトトギス」を中心に作品を発表[1]。始めは主情的な俳風だったが、後に虚子が客観写生を説くと彼女もそれに従い、更に写生を極めるために洋画家森田恒友に素描を学んだ[1]。長谷川かな女・杉田久女とともに、女流俳句草創期を代表する一人。金子兜太はかな女・久女を感情型、みどり女を想念型と指摘している[1]。
- 1931年:「河北新報」の俳壇の選者となる[1]。
- 1932年:東京杉並で俳誌「駒草」を創刊・主宰する[1]。
- 1940年:長男と夫を相次いで失う[1]。
- 1944年:太平洋戦争の激化に伴い「駒草」を休刊、娘婿で「河北新報」の重役でもあった一力五郎(一力健治郎の子)の勧めで仙台に移転[1]。
- 1945年:「駒草」を復刊、以後三十余年に渡って同地の俳句界で活躍する[1]。
- 1956年:河北文化賞を受賞。写生に徹しながらも、人生や生命の機微を瑞々しく詠い上げた俳風は、歳を重ねるに連れて深みを増す[1]。
- 1978年:句集『月下美人』等の業績で第12回蛇笏賞を受賞[1]。その後、東京に転居[1]。
- 1980年9月10日死去。
仙台市太白区茂ケ崎に句碑がある[1]。また、1999年に弟子で現在「駒草」主宰をつとめる蓬田紀枝子による評伝『俳人阿部みどり女ノート 葉柳に…』が刊行され[2]、同年度の俳人協会評論賞を受賞している[3] 。
著作
- 句集
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- 笹鶴(1947年)
- 微風(1955年)
- 光陰(1959年)
- 定本阿部みどり女句集(1966年)
- 雪嶺(1971年)
- 陽炎(1975年)
- 月下美人(1977年)
- 石蕗(1982年)
- 随筆集
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- 冬蟲夏草(1963年)
参考文献
- 『現代俳句大辞典』 三省堂、2008年
外部リンク
- 現代俳句人名事典における阿部みどり女の俳句(現代俳句協会)
- 阿部みどり女の句の鑑賞(『増殖する俳句歳時記』)
- 仙台市太白区まちづくり推進協議会 阿部みどり女の句碑
- 1 阿部みどり女とは
- 2 阿部みどり女の概要
固有名詞の分類
- 阿部みどり女のページへのリンク