豊栄市
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/12 21:23 UTC 版)
概要
定期市(六斎市)の開かれる在郷町として発展し新井郷川の舟運の拠点となった葛塚と、旧新発田街道(木崎街道)の通る宿場町木崎、農村が広がる岡方・長浦の4地域が昭和の大合併により一つとなって誕生した。阿賀北地域の一角を成す。
高度成長期以降は鉄道駅周辺などを中心に宅地開発が進み、前述のように新潟市のベッドタウンとしての性格が強まった一方、工業団地の整備も進んだことから周辺からの通勤流入もある。2000年国勢調査では昼間人口比率は77.8%で、通勤・通学による流入人口、流出人口はそれぞれ5,265人、16,127人。
市名の由来
古くはこの地域が越後国豊田荘にあたることと、郷土が豊かに栄えるようにということで、豊田の「豊」+「栄」えるとして第2回新町名選定委員会(1955年3月21日開催)にて決定された[1][2][3]。
地理
越後平野に位置しており、市域の大半が標高0-4mと低く、帯状にできた僅かな自然堤防の微高地に古くからの居住地が形成されてきた[4]。高度成長期以降には盛土による宅地開発により後背湿地にも市街地が拡大した[4]。低地ゆえに1966年(昭和41年)の7.17水害(下越水害)や1967年(昭和42年)の8.28水害(羽越豪雨)、1998年の8.4水害(平成10年8月新潟豪雨)など幾度となく水害に苦しめられており、それらを受けて福島潟放水路など排水施設の整備が進んだ。北部は新潟砂丘が東西に貫く。
隣接していた自治体
歴史
豊栄町誕生まで
- 1731年(享保16年) - 阿賀野川の水を排水するための松ヶ崎掘割が洪水により決壊し、阿賀野川の本流となったため、福島潟の水位が下がる。そのことにより現れた土地が開墾されたり、村落が形成されることにより人が集まり、後の中心市街地となる葛塚町が形成され始めた[5]。
- 1761年(宝暦11年) - 葛塚に定期市が開かれる[6]。
- 1888年(明治21年) - 内沼村と内沼新村が合併して内沼村となり、新鼻が新鼻村に、新鼻三囲が新鼻新田に改称する。
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行にともなう合併により、葛塚村、嘉山村、太田古屋村、鳥屋村、島崎村、笹山村、藤井村、長場村、亀浦村、越岡村、大久保村、三森村が発足。
嘉山村 | 嘉山村、前新田、新鼻村、新鼻新田、内沼村、大月村、高田村新田地先 |
---|---|
太田古屋村 | 太田古屋村、太田上古屋村 |
鳥屋村 | 鳥屋村、仏伝新田、早通村、下早通村、須戸新田 |
島崎村 | 木崎村、内島見村、樋ノ入村、浦ノ入村 |
笹山村 | 笹山新田、下大谷内新田、浜浦谷内、横土居新田 |
藤井村 | 藤寄村、笠柳村、横井村 |
長場村 | 長場新田、岡新田、上堀田村、下堀田村、大月新田、里飯野村 |
亀浦村 | 浦木村、上土地亀新田、下土地亀新田、太子堂興野、長戸呂新田の内字川原毛 |
越岡村 | 長戸呂村、平林村、十二新田、山飯野村、灰塚新田、大迎村、長戸呂新田の内字大瀬柳 |
大久保村 | 大久保新田、太子堂村 |
三森村 | 高森村、三ツ屋村、森下新田、高森新田 |
※葛塚村は合併せず独立
葛塚町 | 葛塚村、太田古屋村、嘉山村(嘉山、前新田、新鼻、新鼻新田) |
---|---|
岡方村 | 越岡村、大久保村、三森村 |
長浦村 | 長場村、亀浦村、嘉山村(内沼、大月、高田村新田地先) |
木崎村 | 島屋村、島崎村、笹山村、藤井村(笠柳、横井 ※藤寄は聖籠へ) |
---|
- 1922年(大正11年) - 木崎村小作争議。( - 1926年)
- 1955年(昭和30年)3月31日 - 北蒲原郡葛塚町、木崎村、岡方村の3町村が合併し、豊栄町(人口:26,122人)になる。町役場は旧葛塚町役場に設置。ただ、この合併協議会に加入していた長浦村が合併保留になったため、この時点での豊栄町は旧岡方村の地区が飛び地状態となる[7]。
豊栄町誕生後
#外部リンクも参照。
- 1959年(昭和34年)7月22日 - 北蒲原郡長浦村を編入合併。同時に飛び地状態解消。市制施行まで新潟県下最大人口規模の町(人口:34,625人)となる。この頃町章ができる[1][8]。
- 1960年(昭和35年)4月1日 - 旧木崎村浜浦地区(現新潟市白勢町)が新潟市へ分町。(人口:34,256人)
- 1962年(昭和37年)3月6日 - 町役場を上大口(豊栄市役所、豊栄支所を経て旧北区役所)へ移転[9][10]。
- 1967年(昭和42年)8月28日 - 羽越豪雨により新発田川、太田川から溢れた水が市街地へ流入して冠水。同月30日までに床上浸水255戸、床下浸水607戸、田畑の浸水2150ha[11]。
- 1968年(昭和43年)ごろ - 新都市計画法成立に伴い用途地域の導入に向けた動きが始まる[12][13][14][15][16]。
- 1970年(昭和45年)11月1日 - 新潟県で21番目に市制施行(人口:32,715人)。人口規模は19番目。
- 1974年(昭和49年)ごろ - 市街地に住居表示を導入する動きが始まる[17]。
- 1978年(昭和53年)8月1日 - 北蒲原郡聖籠町との境界変更[18]。
- 1981年(昭和56年)9月1日 - 新発田市との境界変更[19]。
- 詳細は新潟市の行政区域の変遷を参照。
- また、豊栄市役所がそのまま新潟市北区役所となり、2021年2月1日に東栄町の新庁舎に移転するまで使用された。
- ^ a b 『広報とよさか』第38号 p.1 豊栄町の沿革・町名の由来・町章 (PDF) (1961年8月20日)
- ^ 『広報とよさか』第366号 p.3 豊田荘とは (PDF) (1990年10月15日)
- ^ 『広報とよさか』第512号 p.24 町村合併と新町名 (PDF) (2002年12月15日)
- ^ a b “地理院地図 「数値地図25000(土地条件)」+「空中写真(1961~1969年)」+「標準地図」”. 国土地理院. 2020年12月30日閲覧。
- ^ 北区のお宝ものがたり 3.河川改修と福島潟開発 (PDF) - 新潟市北区.2019年1月19日閲覧。
- ^ 北区のお宝ものがたり 8.葛塚市とともに歩んできたまち (PDF) - 新潟市北区.2019年1月19日閲覧。
- ^ 新潟市『特集 20周年に考える』
- ^ 『豊栄広報』第21号 p.1 町の由来と将来を表現 - 町章できる - (PDF) (1959年9月20日)
- ^ 『豊栄広報』第42号 p.1 役場新庁舎できあがる (PDF) (1962年3月20日)
- ^ 『広報とよさか』第529号 p.13 ふるさととよさか今と昔 その1 豊栄市役所 (PDF) (2004年5月15日)
- ^ 冠水、浸水続く 豊栄町『朝日新聞』昭和42年8月29日夕刊、3版、9面
- ^ 『豊栄広報』第99号 pp.1-3 用途地域指定を申請 (1968年10月15日)
- ^ 『豊栄広報』第113号 pp.1-4 市街化区域など決定 (1970年12月28日)
- ^ 『豊栄広報』第118号 p.2 用途地域指定を変更 (PDF) (1971年10月30日)
- ^ 『豊栄広報』第123号 p.6 市街化区域 用途地域指定案できる (PDF) (1972年7月20日)
- ^ 『豊栄広報』第131号 p.6 都市計画用途地域 ただいま縦覧中です (PDF) (1973年1月20日)
- ^ 『豊栄広報』第147号 p.3 市街地の住居表示 「町割」原案まとまる (PDF) (1974年3月20日)
- ^ 『豊栄広報』第219号 p.7 聖籠町との境界変更 (PDF) (1978年8月20日)
- ^ 『広報とよさか』第257号 p.11 新発田市との境界の一部を変更 (PDF) (1981年9月20日)
- ^ 『広報とよさか』第108号 p.4 空から見た市街地 戦後3倍に膨張 (PDF) (1970年2月10日)
- ^ 『豊栄広報』第214号 p.6 駅裏団地の造成始まる (PDF) (1978年4月20日)
- ^ “新潟・豊栄市、初の工業団地建設へ、近く本格調査に着手―工業振興の遅ればん回。”. 日本経済新聞: p. 22 地方経済面 新潟. (1986年4月4日)
- ^ “製造業変わる立地地図―豊栄市「団地」で元気印に(リサーチ&ランキング)”. 日本経済新聞: p. 27 朝刊. (1994年10月31日)
- ^ 豊栄市中心市街地活性化基本計画(2002年3月発行、豊栄市) p.21 第Ⅰ章 2.(3) 豊栄市の大型店の現状
- ^ 豊栄市中心市街地活性化基本計画(2002年3月発行、豊栄市) pp.20-21 第Ⅰ章 2.(2) 豊栄市の商圏
- ^ “特集―スーパーセンター出店加速、流通新業態、日本で脚光(ニュースがわかる)”. 日本経済新聞: p. 17 朝刊. (2003年11月4日)
- ^ “豊栄に大規模商業施設、日本版の「WEM」、ランド・コンサルタントが計画。”. 日本経済新聞: p. 22 地方経済面 新潟. (1991年3月20日)
- ^ 『広報みしま』 Vol.387 pp.4-5 来春から高校普通科の通学区域が変わります 三島町(2000年6月)
- ^ a b 『広報とよさか』第112号 p.16 豊栄市のあゆみ 教育 (PDF) (1970年11月30日)
- ^ a b 『広報とよさか』第242号 p.4 学校基本調査の結果概数 (PDF) (1980年6月20日)
- ^ a b 『広報とよさか』第362号 p.11 市内の小・中学生は6,661人 (PDF) (1990年6月15日)
- ^ a b “資料3 北区の検討資料”. 新潟市立学校適正配置審議会 第8回会議. 新潟市教育委員会 (2009年8月). 2020年4月30日閲覧。
- ^ 出典は新潟県小学校の廃校一覧#新潟市を参照
- ^ 出典は新潟県中学校の廃校一覧#新潟市を参照
- ^ “広報とよさか 第296号 pp.2-3 バス路線の廃止・変更問題”. 豊栄市 (1984年12月15日). 2018年12月1日閲覧。
- ^ “広報とよさか 第302号 P.1 出迎えをうけた定期バス”. 豊栄市 (1985年6月15日). 2020年4月28日閲覧。
- ^ 豊栄市中心市街地活性化基本計画(2002年3月発行、豊栄市) p.12 第Ⅰ章 1.(5) ③ 乗合バス路線と輸送人員数
固有名詞の分類
- 豊栄市のページへのリンク