耳川の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/28 23:41 UTC 版)
合戦の時系列
- 天正5年(1577年)12月10日
- 天正6年(1578年) 1月
- 3月15日
- 4月7日
- 4月10日
- 大友軍、土持親成の縣松尾城を攻略し、土持氏滅亡。以後、11月まで佐伯宗天(惟教)が「牟志賀」(現延岡市無鹿町)に在陣する。
- 9月6日
- 9月4日に臼杵を出発した大友宗麟一行、海路で縣に入る(フロイス『日本史』)。同行のイエズス会宣教師・修道士はフランシスコ・カブラル、ルイス・デ・アルメイダ、アンドレ・ドゥオーリア、ジョアン・デ・トルレス(日本人)。「牟志賀」(現延岡市無鹿町)に仮の司祭館と教会を建て、以後毎日、オルガン音楽を伴ったミサを行なう。宗麟と妻のジュリア、その他家臣たちも礼拝に訪れる(フロイス『日本史』)。
- 9月11日 毛利領である備後・鞆に滞在中の将軍・足利義昭が島津氏に対して、自身の上洛への協力および毛利氏と敵対する大友領への侵攻・奪取を求める御内書を発給する。
- 10月20日
- 11月9日 - 12日 高城川原の戦い(通称としてはいわゆる「耳川の戦い」として認知されている合戦)
- 島津軍の先遣隊が小丸川の南の台地上に陣取る。
- 島津軍、河原之陳との内通を画策(後に内通成功。『薩藩旧記雑録』)
- 11月11日 ゲリラ戦などで松山之陳を焼き討ちにする。
- 11月12日 島津軍の本隊(島津義久隊)、根白坂上(陣之内)に到着。
- 11月14日 縣土持氏が島津氏に被官(『川上久辰耳川日記』)し、縣は島津領となる。
- ^ 長田弘通「天正年間以前の大友氏と島津氏」『大分県地方史』143号、1991年。/所収:八木直樹 編『豊後大友氏』戎光祥出版〈シリーズ・中世西国武士の研究 第二巻〉、2014年。ISBN 978-4-86403-122-6。
- ^ a b 伊集守道「天正期島津氏の領国拡大と足利義昭の関係」『九州史学』157号、2010年。/所収:新名一仁 編『薩摩島津氏』戎光祥出版〈シリーズ・中世西国武士の研究 第一巻〉、2014年。ISBN 978-4-86403-103-5。
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