耳川合戦と蒲池宗雪の死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 09:56 UTC 版)
大友氏と島津氏の耳川の戦いにおいても、蒲池氏は三千の兵を率いて大友方として出陣する。大友氏への忠義一筋の蒲池鑑盛に対し、嫡子の鎮漣は大友氏からの独立の意志を抱いていた。結果、蒲池鑑盛は耳川の戦いで奮戦し討ち死にし、蒲池鎮漣(鎮並)が家督を継いだ。 耳川での大友氏の大敗北は、筑後の大友幕下の大身領主たちの大友氏からの離反を招き、山下の蒲池分家の蒲池鑑広以外は、反大友の旗印を掲げ、筑後に侵攻した龍造寺隆信に組することになる。蒲池鑑広は、侵攻する龍造寺軍に対して山下城で約1年間孤軍奮闘するが、大友氏には蒲池鑑広を支援する力は無く、龍造寺氏と和睦を結ぶ。
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