耳川での最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/04 07:05 UTC 版)
天正6年(1578年)、北上する薩摩国の島津氏と大友氏との間の日向国での耳川の戦いには、大友軍の一翼として参加した。初老の身で病身だったが、嫡子の鎮漣や三男の統安と共に3千の兵を従えて出陣(『北肥戦史』)した。しかし、既に家督を継いでいた鎮漣は大友氏から離心しており、病気を口実に2千の兵と共に柳川へ帰城してしまう。鑑盛は大友氏の軍に留まり、開戦後は大友軍総崩れの状況下、直属の兵約1千を率いて島津氏の本営への突入を試みるなど奮戦したが大勢は揺るがず、統安と共に戦死した(『大友記』)。その最期について『筑後国史』は「湊川の戦いにおける楠木正成の壮烈な最期にも比せられる」と記している。 菩提寺の崇久寺の霊碑には、「松梅院殿長國覚久居士神儀」と記されている。
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