澤蘭子 澤蘭子の概要

澤蘭子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/27 13:51 UTC 版)

さわ らんこ
澤 蘭子
1920年代前半の写真。
本名 澤 靜子 (さわ しずこ)
松本 静子 (まつもと しずこ)
澤 志づ子 (さわ しづこ)
別名義 泉 らん子 (いずみ らんこ)
泉 蘭子 (いずみ らんこ)
澤 らん子 (さわ らんこ)
生年月日 (1903-07-25) 1903年7月25日
没年月日 (2003-01-11) 2003年1月11日(99歳没)
出生地 日本 宮城県仙台市東六番丁(現在の同県同市宮城野区東六番丁)
死没地 日本 京都府京都市下京区
職業 俳優
ジャンル 少女歌劇劇映画現代劇時代劇サイレント映画トーキー
活動期間 1919年 - 1955年
配偶者 松本四良 (離婚)
美濃部進 (内縁・離別)
近衛秀麿 (内縁・離別)
著名な家族 近衛曄子 (夭折)
主な作品
『恋慕地獄』
『籠の鳥』
女殺油地獄
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人物・来歴

宝塚少女歌劇団と10代での結婚

1903年(明治36年)7月25日宮城県仙台市東六番丁(現在の同県同市宮城野区東六番丁)に生まれる[1][2][3][7]。父は漢学者の澤幸次郎である[2]。出生名については、『一九三三年版 オール松竹俳優名鑑』では「澤 靜子」とされ[1]、死去時には本名は「澤 志づ子」である旨の報道がなされている[3]

父の実家のある千葉県千葉市で育ち、旧制・千葉市立蘇我小学校(現在の千葉市立蘇我小学校)を卒業後に、1916年(大正5年)4月に東京へ転居して旧制・東京家政女学校(現在の豊島岡女子学園高等学校)に進学する[1][2]1919年(大正8年)5月に同校を中途退学して、同年1月に設立された寶塚音樂歌劇學校(現・宝塚音楽学校)に入学する[1][2][10]宝塚歌劇団9期生。同期生に桂よし子門田芦子巽寿美子奈良美也子らがいる。芸名は小倉百人一首の第27番:中納言兼輔の「甕原 わきて流るる 川 何時見きとてか 戀しかるらむ (みかのはら わきてながるる いづみがは いつみきとてか こひしかるらむ)」から泉 蘭子と命名した。1920年大正9年)3月に宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団)の第25回公演『毒の花園』で初舞台を踏み[11]娘役として活躍する。1921年大正10年)7月の夏季公演第一部では『ネヴヰーライフ』に平和の女神役で主演したが[10]、同年に作曲家の松本四良との恋愛が問題になって宝塚少女歌劇団を退団した[1][12]。退団後に満18歳で松本と結婚している[12]

帝キネでの籠の鳥・日活・松竹蒲田

やがて東京に戻り、1923年(大正12年)3月に松竹蒲田撮影所に入社、早くも同年6月には日活向島撮影所に移籍[1][2]、同年6月14日に公開された若山治監督の『火焔を浴びて』に「澤 らん子」の名で出演したが[4]、同年9月1日に起きた関東大震災に被災した同撮影所は壊滅した。翌1924年(大正13年)5月25日、帝国キネマ演芸に移籍し、「澤 蘭子」と改名して同社の芦屋撮影所に所属した[1][2][4]。同年6月26日に公開された澤の主演作『恋慕地獄』は、澤と同じ日活向島から来ていた若山治が監督して大ヒット、澤は人気スターになる[2]。つづいて同年8月14日に公開された松本英一監督の『籠の鳥』に主演、同作は、帝国キネマ創立以来最大のヒットを記録した[2]1927年昭和2年)2月9日に公開された松本英一監督の『馬車寅』を最後に退社、休養に入った[1][4]

同年5月15日、日活に復帰、京都の日活大将軍撮影所に所属した[1][2][4]。同年7月1日に公開された伊奈精一監督による『浮世車』に主演、同作は、「澤蘭子復帰第一回出演作」として製作されたものである[8][13]。同撮影所に所属した俳優の美濃部進(改名後、岡譲二、あるいは岡譲司)との恋愛失踪事件を起こし、1929年(昭和4年)11月、退社を余儀なくされる[1][2]。『一九三三年版 オール松竹俳優名鑑』および『芸能人物事典 明治大正昭和』には、このとき美濃部と澤は結婚したと記されている[1][2]。一方、『日本映画俳優全集・男優編』の「岡譲司」の項には、「事実上の結婚をしていた」と記されている[14]。大野芳「近衛文麿」p.285にも「澤さんは岡譲二と入籍していませんでした」との中村万作の証言が載っている。

1930年には一時期、「泉 蘭子」の名で帝国キネマ演芸の映画に出演した記録がある[4]1931年5月、美濃部とともに松竹蒲田撮影所に入社、このとき美濃部は「岡譲二」に改名している[1][2][4][14]1932年10月27日に公開された島津保次郎監督によるトーキー作品『歓喜の一夜』では、岡との主演共演が実現した[2][4]

近衛秀麿との出逢いと別離

1936年からフリーランスとなった[2]。同年、片岡千恵蔵プロダクションが製作した『女殺油地獄』(監督藤田潤一、配給日活)に出演、同年7月31日に公開され、同作の澤の評価は高かった[2][4]1937年7月11日に公開された、P.C.L.映画製作所製作、東宝映画配給、伏水修監督による『白薔薇は咲けど』に出演したのを最後に、映画界を去る[2][4]。このころ、岡との関係を清算して、アメリカ合衆国に渡る[2][14]。同年7月31日横浜港を発つその船上で、オーケストラの指揮をするために乗船していた指揮者近衛秀麿と知り合う。近衛は長兄の文麿から「澤蘭子にさわらんこと」[15]と忠告を受けたが、アメリカ到着後にハリウッドで近衛と同棲を始める。1938年(昭和13年)には、ベルリンで同棲生活に入る[2][16]声楽[17]ドイツ語を学ぶ傍ら、近衛子爵夫人として社交界でも活躍して、1940年(昭和15年)2月に娘を出産する。娘の名は本と中民国との友好を願って、曄子と命名した。第二次世界大戦後は、1945年9月28日に娘を栄養失調のために5歳で失くしつつも、翌1946年には帰国した[2]

2003年1月11日の23時55分に京都市下京区内の病院で老衰により逝去[3]。享年99。晩年は同市中京区西ノ京南円町に住み、葬儀の際の喪主は志賀山一流十世家元の中村万作が務めた[3]

芸名


  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 蒲田[1933], p.64.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 沢蘭子jlogos.com, エア、2013年2月19日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g 澤蘭子さん死去 女優共同通信、2003年1月12日付、2013年2月19日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 沢らん子泉蘭子日本映画データベース、2013年2月19日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 澤蘭子沢蘭子沢らん子、日本映画情報システム、文化庁、2013年2月19日閲覧。
  6. ^ a b c 澤蘭子沢蘭子、映連データベース、日本映画製作者連盟、2013年2月19日閲覧。
  7. ^ a b c d 澤蘭子KINENOTE, 2013年2月19日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g h 澤蘭子沢蘭子日活データベース、2013年2月19日閲覧。
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m 澤蘭子東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年2月19日閲覧。
  10. ^ a b 寶塚少女歌劇團[1933], p..
  11. ^ 宝塚歌劇団[1964], p136
  12. ^ a b 谷崎[1983], p..
  13. ^ 浮世車、日活データベース、2013年2月19日閲覧。
  14. ^ a b c キネマ旬報社[1979], p.113-114.
  15. ^ 大野芳「近衛文麿」p.281
  16. ^ 指揮者・近衛秀麿の肖像講談社、2013年2月19日閲覧。
  17. ^ 文藝春秋社[1995], p.31.
  18. ^ 主な所蔵リスト 劇映画 邦画篇マツダ映画社、2013年2月19日閲覧。
  19. ^ 音楽映画 百萬人の合唱、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年2月19日閲覧。


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