治承・寿永の乱 治承・寿永の乱(源平合戦)地図

治承・寿永の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/18 08:38 UTC 版)

治承・寿永の乱(源平合戦)地図

年表

  • 年月日は出典が用いる暦であり、当時は宣明暦が用いられている
  • 西暦は元日を宣明暦に変更している
和暦 西暦 月日
宣明暦長暦)
内容 対立勢力 場所
治承3年 1179年 11月14日 治承三年の政変 平安京(京都府)
治承4年 1180年 2月21日 安徳天皇践祚
4月9日 以仁王の令旨発せられる
5月26日 以仁王の挙兵 以仁王・源頼政vs平氏 山城国(京都府)宇治
6月2日 福原へ遷都
8月17日 山木館襲撃 源頼朝vs山木兼隆 伊豆国(静岡県)
8月23日 石橋山の戦い 源頼朝vs大庭景親 相模国(神奈川県)
8月25日 波志田山合戦 甲斐源氏vs駿河・相模平氏方豪族 甲斐国(山梨県)
駿河国(静岡県)
8月26日 衣笠城合戦 三浦氏vs平氏方豪族 相模国(神奈川県)
9月~養和元年(1181年) 11月 熊野動乱 熊野三山vs平氏 紀伊国(和歌山県)
9月 鎮西反乱勃発 肥後豪族vs平氏・平氏方豪族 九州北部
9月7日 市原合戦 信濃源氏vs平氏 信濃国(長野県)
9月10日 武田信義信濃侵攻 武田信義vs信濃平氏方豪族 信濃国(長野県)
9月14日 結城浜の戦い 千葉氏vs千田氏 下総国(千葉県)
10月13日 鉢田の戦い 甲斐源氏vs駿河平氏方豪族 甲斐国(山梨県)
駿河国(静岡県)
10月20日 富士川の戦い 源頼朝武田信義vs平氏 駿河国(静岡県)
11月~治承5年1月 美濃源氏の挙兵 美濃源氏尾張源氏vs平氏 美濃国(岐阜県)
11月17日 金砂城の戦い 源頼朝vs佐竹氏 常陸国(茨城県)
11月23日 平安京に還都
12月1日 源希義討たれる 源希義vs土佐平氏方豪族 土佐国(高知県)
12月 近江攻防 近江源氏園城寺vs平氏 近江国(滋賀県)
12月28日 南都焼討 東大寺興福寺vs平氏 大和国(奈良県)
12月 河内石川源氏反乱 河内石川源氏vs平氏 河内国(大阪府)
12月 伊予河野氏の蜂起 河野氏vs四国平氏方豪族 瀬戸内海
治承5年
養和元年
1181年 1月14日 高倉上皇崩御後白河法皇院政復活
閏2月4日 平清盛死去
3月10日 墨俣川の戦い 源行家・尾張源氏vs平氏 尾張国(愛知県)
6月17日 横田河原の戦い 信濃源氏vs城資職 信濃国(長野県)
越後国(新潟県)
8月~11月 養和の北陸出兵 北陸豪族vs平氏 北陸地方
養和2年
寿永元年
1182年 4月 鎮西反乱終結
寿永2年 1183年 2月20日~2月23日 野木宮合戦 源頼朝vs志田義広 下野国(栃木県)
源頼朝源義仲のにらみ合いと和睦 信濃国
4月27日 火打城の戦い 越前・加賀豪族vs平氏 越前国(福井県)
5月9日 般若野の戦い 源義仲・北陸豪族vs平氏 越中国(富山県)
5月11日 倶利伽羅峠の戦い 源義仲vs平氏 加賀国(石川県)・越中国(富山県)
6月1日 篠原の戦い 源義仲vs平氏 加賀国(石川県)
7月25日 平氏都落ち
8月20日 後鳥羽天皇践祚
10月14日 寿永二年十月宣旨
閏10月1日 水島の戦い 源義仲vs平氏 備中国(岡山県)
11月19日 法住寺合戦 後白河法皇vs源義仲 平安京(京都府)
11月28日 室山の戦い 源行家vs平氏 播磨国(兵庫県)
寿永3年
元暦元年
1184年 1月20日 宇治川の戦い 源範頼源義経vs源義仲 山城国(京都府)
近江国(滋賀県)
1月20日 粟津の戦い 源範頼源義経vs源義仲 近江国(滋賀県)
2月7日 一ノ谷の戦い 源範頼源義経vs平氏 摂津国(兵庫県)
5月 鎌倉御家人甲斐・信濃へ侵攻 源頼朝vs武田信義 甲斐国(山梨県)
信濃国(長野県)
7月 三日平氏の乱 大内惟義佐々木秀義vs平家継藤原忠清 伊賀国(三重県)
近江国(滋賀県)
12月7日 藤戸の戦い 源範頼vs平氏 備前国(岡山県)
元暦2年 1185年 2月1日 葦屋浦の戦い 源範頼vs平氏 筑前国(福岡県)
2月7日 屋島の戦い 源義経vs平氏 讃岐国(香川県)
3月24日 壇ノ浦の戦い 源範頼源義経vs平氏 長門国(山口県)

脚注


注釈

  1. ^ 注進者に関しては異説もある。
  2. ^ 反乱軍の主力は駿河を制圧した甲斐源氏であり、頼朝は黄瀬川に駐留して形勢を観望していたという説が有力になりつつある[3]
  3. ^ 『吾妻鏡』には義仲を討つためと記載されているが、『玉葉』記載の追討宣旨には追討対象者が源頼朝、源信義となっており、源義仲は追討対象者にはなっていない。この時点では義仲はまだ無名の存在であり、この出兵は北陸各地で発生した各反乱勢力の追討とみなすべきとの学説が有力になっている[6]
  4. ^ 後世の編纂史料『吾妻鏡』『百錬抄』では征夷大将軍だが、同時代史料の『玉葉』『山槐記』(『三槐荒涼抜書要』所収)では征東大将軍と記されている[7]
  5. ^ 三日平氏の乱の背景として、頼朝による武家支配一元政策に対する反発があったとする説もある[3]
  6. ^ 『吾妻鏡』元暦2年(1185年)正月6日条には、範頼に宛てた同日付の頼朝書状が記載されている。その内容は性急な攻撃を控え、天皇・神器の安全な確保を最優先にするよう念を押したものだった。一方、義経が出陣したのは頼朝書状が作成された4日後であり(『吉記』『百錬抄』同日条)、屋島攻撃による早期決着も頼朝書状に記された長期戦構想と明らかに矛盾する。吉田経房が「郎従(土肥実平・梶原景時)が追討に向かっても成果が挙がらず、範頼を投入しても情勢が変わっていない」と追討の長期化に懸念を抱き「義経を派遣して雌雄を決するべきだ」と主張していることから考えると、屋島攻撃は義経の「自専」であり、平氏の反撃を恐れた院周辺が後押しした可能性が高い。『平家物語』でも義経は自らを「一院の御使」と名乗り、伊勢義盛も「院宣をうけ給はって」と述べている。これらのことから、頼朝の命令で義経が出陣したとするのは、平氏滅亡後に生み出された虚構であるとする見解もある[8]
  7. ^ 三種の神器のうち剣以外は無事に確保された。
  8. ^ 頼朝が占領して武士に給付した土地の中には旧勢力側の荘園なども含まれており、その後頼朝と朝廷との間で問題となった。だが、「寿永二年十月宣旨」や翌年3月7日の後白河法皇の院宣によって頼朝勢力圏と認めた地域については武士たちを在地領主として認めることで旧勢力側が歩み寄ることになった。

出典

  1. ^ 「驕れる者久しからず(おごれるものひさしからず)」の意味や使い方 わかりやすく解説 Weblio辞書”. www.weblio.jp. 2023年7月14日閲覧。
  2. ^ 川合康 著「生田森・一の谷合戦と地域社会」、歴史資料ネットワーク 編『地域社会からみた「源平合戦」―福原京と生田森・一の谷合戦―』岩田書院、2007年。 
  3. ^ a b c d 川合 2009.
  4. ^ a b 上横手, 元木 & 勝山 2002.
  5. ^ a b 元木 2013.
  6. ^ a b c 上杉 2007.
  7. ^ 櫻井陽子「頼朝の征夷大将軍任官をめぐって-『三槐荒涼抜書要』の翻刻と紹介-」『明月記研究』9号、2004年。 
  8. ^ 宮田敬三「元暦西海合戦試論-「範頼苦戦と義経出陣」論の再検討-」『立命館文学』554号、1998年。 
  9. ^ 三田武繁『鎌倉幕府体制成立史の研究』吉川弘文館、2007年、序章「一一八〇年代の内乱と鎌倉幕府体制の形成」
  10. ^ 川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ―治承・寿永の内乱史研究―』〈講談社学術文庫〉2010年、75頁。 
  11. ^ 近藤好和『弓矢と刀剣―中世合戦の実像―』〈平凡社新書〉1997年、138頁。 
  12. ^ 源平特集:合戦と武具”. 神戸市文書館. 2021年3月12日閲覧。
  13. ^ 川合康「鎌倉幕府の草創神話」『季刊東北学』27号、2011年。 /所収:川合康『院政期武士社会と鎌倉幕府』吉川弘文館、2019年、255-264頁。 


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