江波 (広島市)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/07 08:52 UTC 版)
地理
江波は広島市中心部(紙屋町)から南方向、同市中区の南に位置する地域[1]。全体が平坦な地形であり、地域内を広島電鉄江波線が走っている[2]。広島県内を流れて広島湾に注ぐ太田川の河口部に位置し、南北に長細い地形をしている。東の吉島・光南との間に旧太田川(本川)が流れており、西側の西区観音との間に天満川が流れている[1]。北側で舟入と接し、南側で広島湾に面す[2]。
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江波山
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江波皿山
歴史
地名の由来
江波がまだ島だった頃、漁業のエサが肥え、魚も良く獲れたという。このことから良いエサ場を意味して「餌場」(えば)と呼ばれるようになったとされる。漢字について、「衣波」、衣羽(えば)神社の「衣羽」などが当てられた[3]。
- 江波二本松(えばにほんまつ) - 現在の江波二本松一帯には養殖場があった。養殖場の中に小さな2つの山があり、松の木が1本ずつあったので二本松と言われるようになったことから[4]。
- 江波皿山公園(えばさらやまこうえん) - 江波皿山の麓で江波焼といわれる皿を焼いていたことから[4]。
沿革
江波島
江波は、かつて広島湾に浮かぶ「江波島」という島であった。江波の村社である「衣羽(えば)神社」には約680年前の記録があり、島には約700年前には人が住んでいたという記録が残っている。広島が五箇庄といわれていた寒村の頃、現在の太田川デルタはほぼ海中であり、現在は丘の部分がデルタに点在していた島々であった。
干拓と埋め立て
江波が島であった頃、広島湾は洪水が発生した際に流出した土砂が、広島湾に溜まって自然の力によって海岸線が南下していった。約400年前、毛利輝元によって広島城が築かれると、人の力によって急速に干拓が進んでいった。 明治時代には舟入と陸続きになった。現在の地形になったのは第二次世界大戦戦後の埋め立てによるものである。
- 現在の中区白島(はくしま)が箱島(はこしま)、南区比治山は日地島(肘山・ひじやま)、南区黄金山(おうごんざん)が仁保島(にほじま)、そして中区江波の江波山及び江波皿山は江波島(えばじま)と呼ばれていた。
江波港
江波は江戸時代、広島の外港の町として栄え、半農半漁の集落であった。とくに海苔とカキが採取され、養殖が盛んであった。畑があく冬に海苔を天日干ししていた。江戸時代幕末には横浜港や神戸港などのように貿易港にする案が浮上したが、版籍奉還により白紙となった。1889年には江波から東南に位置する宇品港(現在の広島港)の築港により外港としての座を譲った。戦時中には広島工業港建設により江波山南側が埋め立てられ、徐々に市街地化されていった。
江波村
古い地図には「沼田郡江波村」と記されており「江波村」が存在していた。
広島市江波町
- 1889年 - 広島市が発足して広島市江波町(えばまち)となる。町域は北側の江波と舟入の境界が現在よりも北寄りで(広島市道霞庚午線付近)現在の江波地区より若干広かった。
- 広島県立広島商業高等学校も江波町に位置していた為に「江波校舎」と呼ばれていた(現在は住居表示の実施により舟入南に変更されている)。
戦争と広島工業港の造成
- 1940年以降、「広島工業港建設」の一環として江波山南側の海面が埋め立てられ、漁業養殖業者の多くは生産縮小や廃業を余儀なくされた。とくに打撃を受けたのは、カキとともに、江波の産業であった「海苔」である。海苔養殖場は埋め立てにより、多くが失われた。
- 1943年、広島市江波町南側の造成埋立地に「広島工業港建設」計画によって建設されていた、三菱重工広島造船所江波工場が操業を開始。
- そのほか町内には江波陸軍射的場や広島陸軍病院などが設置された。
原爆被災
- 1945年8月6日の原爆被災に際し、広島測候所では職員中に死傷者が出たり、観測機器が破損したり爆風で窓枠が曲がったりといった被害があった。また多くの負傷者が殺到し、その数は一万人を突破したといわれている。
戦後から現代
- 1968年 - 住居表示が行われ、「広島市江波町」から「広島市江波東」「広島市江波西」などの地名に変更され、北側の江波と舟入の境界も現行の境界に変わった。
- 1973年 - 三菱重工広島造船所江波工場(現・三菱重工広島製作所江波工場)にて1975年まで、沖縄国際海洋博覧会の日本政府出展物として、博覧会のテーマである「海-その望ましい未来」を具現するシンボル的存在の建造物である、アクアポリスが建造された。
- 1980年 - 広島市の政令指定都市移行。江波地区は町名はそのままに中区とされた。
- 2014年 - 平面道路部の広島南道路と有料高架道路の広島高速3号線が開通。江波大橋と観音大橋[5]も開通し、吉島・観音はもとより、商工センターや広島高速を利用した場合宇品地区、呉方面、海田方面や山陽自動車道などとも接続され、アクセスが向上した。その一方で、道路の建設によって地域コミュニティが分断されたため、高架下に広場を整備するなど、賑わい創出に向けた取り組みが進められている[6]。
- 現在は広島市中心部へのアクセスの良さと、路面電車・広電バス・高速道路など交通網の良さから、住宅・マンションが多くなってきている。
- 2023年江波商店街が解散した。
人口の変遷
1980年(昭和55年)12月末[7] | 6,700世帯 17,909人 |
1990年(平成2年)12月末[7] | 7,162世帯 18,148人 |
2000年(平成12年)12月末[7] | 7,104世帯 16,363人 |
2010年(平成22年)12月末[7] | 6,728世帯 14,473人 |
2013年(平成25年)11月末[8] | 6,806世帯 14,382人 |
交通
バス
広島電鉄[9]によるバスである広電バス6号線(江波 - 牛田方面)が運行されている[10]。
鉄道
道路
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広島電鉄江波線(路面電車)江波電停
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江波電停に隣接する広電江波車庫
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江波トンネル
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江波南と江波沖町を結ぶ江波橋
舟入 | ||||
西区観音 | 吉島・光南 | |||
江波 | ||||
広島湾 |
- ^ a b 国土地理院発行2万5千分の一地形図。
- ^ a b “Google map”. 2013年12月21日閲覧。及びGoogle mapストリートビュー。
- ^ “江波商店街振興組合”. 広島商工会議所. 2013年12月21日閲覧。
- ^ a b “ささご商事”. 2013年12月21日閲覧。
- ^ a b “開通前の道路で地元小学生が橋名板を設置”. 国土交通省 中国地方整備局 広島国道事務所. 2013年12月21日閲覧。
- ^ “一般国道2号広島南道路(広島市中区江波区間)高架下等利用計画書”. 広島国道事務所. 2017年4月30日閲覧。
- ^ a b c d 1980,1990,2000,2010年12月末、住民基本台帳調査による。“広島市調べ。”. 2013年12月21日閲覧。
- ^ 2013年11月末時点、住民基本台帳調査による。“広島市調べ。”. 2013年12月21日閲覧。
- ^ “広島電鉄”. 2013年12月22日閲覧。
- ^ “広島市中心部エリア路線図”. 広島電鉄 バスカンパニー. 2013年12月22日閲覧。
- ^ “路線・電停ガイド”. 広島電鉄 電車カンパニー. 2013年12月22日閲覧。
- ^ “広島市立江波中学校”. 2013年12月21日閲覧。
- ^ “広島市立江波中学校”. 2013年12月21日閲覧。
- ^ “広島市江波山気象館”. 2013年12月21日閲覧。
- ^ “広島中央警察署江波町交番”. 広島県. 2013年12月21日閲覧。
- ^ “新庁舎での業務を開始しました。(中消防署 江波出張所)”. 広島市. 2015年4月8日閲覧。
- ^ “江波下水処理場”. 2013年12月21日閲覧。
- ^ 【継ぐメシ!つなぎたい郷土食】江波巻き(広島市江波地区)漁師の手軽な日常食『日本農業新聞』2021年7月10日8-9面
- ^ “江波地区社会福祉協議会”. 2013年12月21日閲覧。
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