松田聖子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/09 16:31 UTC 版)
概説
日本を代表するアイドル歌手。1970年代を代表するアイドルであった山口百恵が引退すると交代するようにデビュー、まもなくヒット曲を連発しただけではなく、髪型や、後には生き方など、様々な面で日本の大衆文化に大きな影響を与えるカリスマ的な存在となった。
1970年代を代表するアイドル山口百恵が引退した年の1980年4月に「裸足の季節」でレコードデビュー。伸びのある歌声で注目され、リリースしたレコードが次々とヒットを記録する1980年代を代表するアイドルとして活動した[7]。類い稀な声質と「ぶりっ子」と言われるほどの可愛らしい仕草や容姿とが相まって人気を獲得し、トレードマークの「聖子ちゃんカット」と呼ばれるヘアスタイルを模倣した若い女性たちが当時の街中に溢れかえった[7]。後に中森明菜と人気を争うようになり、当時を知るファンの間では音楽番組における順位争いや、「聖子と明菜のどちらが好きか」という議論が頻繁に発生した。
芸能界が「百恵引退後のアイドル像」を模索する中で、百恵の「実人生とアイドル像を限りなく一致させる」方針とは正反対の「ドレスを着飾ったアイドルの原点」を演じるという方向性を取り、実際に衣装や容姿に自身の主張を通していた(『聖子ちゃんカット』も自身が行きつけの美容室で相談しながら作り上げたものである)。聖子のアイドル像は、百恵の徹底した「脱アイドル」以前にあった「アイドルの原点」を表現する事にあり、これが若者の支持を集めたのではないかと評されている。百恵が引退した1980年10月の時点で、デビュー半年後の聖子は既に「ポスト山口百恵」の筆頭として認知されるに至っていた[7][注釈 1]。
出版プロデューサーの但馬オサムは「容姿だけでなく歌の表現力でも1980年代のアイドル歌手としては突出したものを持っていた」と評価しており、歌の下手なアイドルでも通用した「かわい子ちゃん歌手」の時代からの転換を象徴していた[8]。声量に関しても特筆すべきものがあり、初期の楽曲の作詞を手掛けた三浦徳子は初めて聖子の歌声を聴いた時を振り返って「いくらでも声が出るんで驚きました。マイクなんかいらないくらい」とコメントしている。また、三浦が「母音をしゃくりあげるような歌い方」と表現する特徴的な歌唱法は同じく初期の楽曲の作曲を手掛けた小田裕一郎から受けたレッスンの影響によるもので、彼の歌い方にそっくりだという[9]。
聖子を発掘してプロデュースしたCBS・ソニーディレクターの若松宗雄は、聖子の魅力について第一に声質を挙げ、透明感と強さ、その中に娯楽性とある種の知性を感じたと語っている。絶頂期は多忙なスケジュールから曲のレッスンを受ける時間はなく、レコーディング当日に楽曲を聴いて即収録に挑んでいた。プロデューサーからもとにかく勘が良いと言われており、2〜3回デモを聞いただけで曲調を覚えて歌えるようになっていたという。若松は聖子の上げた売り上げを惜しみなく有能なスタッフや新技術へと投入し、オリジナルアルバム「Pineapple」は1982年10月1日には世界初のCDとして発売された50タイトルの中に名を連ねている。1983年発売のアルバム「ユートピア」からデジタルレコーディングが行われるようになり、デジタルレコーディングの先駆者となった。マルチトラック・レコーダーには後にCDマスタリングのスタンダードとなるソニーのPCM-3324が導入され、CD時代を見据えた準備を他のアイドルよりも数年早く開始していた。1983年には過去作品も含めて音質にこだわったCD、マスターサウンドLP、メタルマスターCTが発売された。
楽曲の記録としては、1980年の3枚目のシングル「風は秋色」から1988年の26枚目のシングル「旅立ちはフリージア」まで24曲連続でオリコン週間シングルチャート第1位を獲得した[10]。これはピンク・レディーが当時持っていた9曲連続を大幅に塗り替える記録であり、1980年代当時「アイドル四天王」と呼ばれた南野陽子・中山美穂・浅香唯・工藤静香の1位獲得記録の合計を上回るものであった[11][注釈 2]。この記録は、CDバブルを迎えた2000年に破られるまで11年10か月間保持していた。
デビュー初期の曲は、主として三浦徳子の作詞・小田裕一郎の作曲によるものであったが、6枚目のシングル「白いパラソル」以降は作詞に松本隆が起用され(19枚目のシングル『ハートのイアリング』まで)、作曲家の選択も含め松本のプロデュース色が濃くなっていった。編曲は2枚目のシングル「青い珊瑚礁」から大村雅朗が主体となり、アルバム曲を含めた多くの楽曲を担当した[4]。1980年代の作曲家は財津和夫、松任谷由実(『呉田軽穂』名義)、細野晴臣などニューミュージック系の作家が多かった。こうしたシンガーソングライターの起用について若松は、かつて自身が担当したキャンディーズと吉田拓郎のコラボの成功が念頭にあり[12]、「独創的なシンガーソングライターとアイドルのコラボは予想を超えた新しい世界を生み出す」という判断からであったと述べている[12]。
私生活では、デビュー前から憧れの存在であり数年にわたる交際の末に結婚間近とまで言われていた郷ひろみと破局。その後、すぐに映画で共演した神田正輝との交際が公となり、1985年6月に結婚。翌1986年10月1日に長女・沙也加を出産するなど、話題は尽きなかった。母となり大きな転換期を経た後も変わらずアイドル歌手としてヒットを続けたため、「ママドル」という呼称も生まれた。
1980年代から作詞や作曲を行うことが時折あり、「小さなラブソング」の作詞に始まり、「Canary」、「時間旅行」、「シェルブールは霧雨」などを作曲。この経験が後のセルフプロデュースにつながっていき、1990年代以降は作詞・作曲やアルバムのプロデュースに自ら取り組むシンガーソングライターとしての活動を展開していった。その一環として海外での音楽活動も意欲的に行っており、1990年にSeiko名義で全米デビューを果たした後も日本でのポップス路線と並行してたびたびリリースを続けていた。1996年には、小倉良と共作した「あなたに逢いたくて〜Missing You〜」が初のミリオンセラーを記録し、自身最大のヒット曲(2022年現在)となった。歌手として円熟味が増した近年では、海外進出時に出会った著名な音楽家との交流を元に全編英語詞のジャズアルバム(『SEIKO JAZZ』、『SEIKO JAZZ 2』)をリリースするなど、新たな一面も見せている。
デビューから40年あまり、過激なプライベート報道や様々なバッシングに遭いながらもなお「アイドル」と呼ばれ続けるその活動に敬意を表して「永遠のアイドル」と称されることもあり、『女性自身』や『婦人公論』その他の雑誌、TVなどのメディアにおいて「生き方に憧れる女性有名人」「輝いている女性有名人」「スターだと思う有名人」「永遠のアイドルだと思う有名人」などの好感度アンケートでは常に上位にランクインした。2007年4月9日、「松田聖子的生き方」とそれに共感する同世代の女性たちに焦点を当てたドキュメンタリー番組、NHKスペシャル『松田聖子 女性の時代の物語』が放送され、放送後も『朝日新聞』の天声人語(4月15日付)にもその話題が取り上げられた。大宅壮一文庫創設以来の人名索引総合ランキングでは「松田聖子」が1位(2020年10月)となっており、2位の小沢一郎らを抑えて「日本の雑誌に最も頻繁に登場した著名人」とされている[13]。
注釈
- ^ ただし聖子に対する「ポスト山口百恵」という表現はマスコミが行っているだけであり、本人もプロデューサーの若松もそのような考えは念頭になかったことを著書「松田聖子の誕生」で明らかにしている。そもそもレコード会社は同じCBS・ソニーであったが、百恵は企画制作2部の酒井政利が担当し、聖子は企画制作6部の若松が担当していた。
- ^ 『Precious Heart』リリース時点。
- ^ 神田正輝との結婚披露宴の際に身に付けていた緞子織りの白無垢に左三巴紋が記されていた事がテレビでも放送された。
- ^ 尾木プロは1980年に浜田朱里をデビューさせる予定があったため。奇しくも松田聖子と浜田朱里は堀越時代の同級生であり、親友でもある。
- ^ 後に郷は「会見する事も知らなかった。あんなセリフも言っていない。僕が生まれ変わって虫だったらどうする気だろう?」とジョークを交じえて否定したという[26]
- ^ 『うたばん』で聖子の大ファンだという米良美一と共演。2008年3月10日放送の『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』で聖子の大ファンだという中川翔子と共演。2008年11月10日放送の『HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP』で聖子の大ファンだというはるな愛と共演。
- ^ 逮捕された男は沖縄の地元民ではなく、埼玉県入間市(旧高麗郡)に住むファンを名乗る19歳の少年であった。ノイローゼを患っており埼玉県の精神病院に入院していた精神病患者でもあった。2日前の26日に外泊許可を取得し、前日の27日に家族と一緒に買い物に東京に来ていたが、その最中に行方をくらまし、手持ちの小遣い35,000円で航空券を購入して沖縄へ飛ぶ。その後、凶器となった陳列ケース棚を留めるスチール製の金具を購入した。犯行動機については「有名人である松田聖子を殴る事で自分も有名になりたかった」と供述しており、聖子にとってはいわれなき災難であった コンサート中 暴漢に襲われた松田聖子 日刊ゲンダイDIGITAL、2023年3月30日閲覧
- ^ フジテレビ系列だが、ザ・トップテンの放送及び中継に参加していた。
- ^ 当該のセリフは本放送のみで、映像作品ではカットされている。
- ^ 松田聖子のプロデュサーであった若松宗雄の著書「松田聖子の誕生」では若松とデビュー前の聖子が話をしていた乃木坂の小さな喫茶店でほぼ必ず馬場が寛いでいたことが記されており、実際には聖子の顔を知っていた可能性がある。
- ^ 同作の「松田聖子」は中華料理店「幸楽」の従業員。聖子はドラマ中盤で結婚して苗字が変わったため、その後の役名は「田島聖子」になっている
- ^ 山下達郎のカバー曲、原曲は英語詞だが、松田が日本語詞を提供している。
出典
- ^ 両手 1980, p. 109,234
- ^ 『大人のためのハイレゾオーディオ完全マニュアル』学研プラス、2015年、76頁。ASIN B00VE4B67M 。
- ^ a b c Eremenko, Alexey. Seiko Matsuda | Biography & History - オールミュージック. 2021年1月13日閲覧。
- ^ a b “『SEIKO MEMORIES~Masaaki Omura Works~』スペシャルサイト”. OTONANO. ソニー・ミュージックダイレクト. 2018年8月12日閲覧。
- ^ 名鑑 2016
- ^ “松田聖子、中央大学法学部通信教育課程を卒業「法律を学ぶことができた4年間は素晴らしい時間」”. スポーツ報知. 2024年3月25日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m 「第二章 遅れてきたアイドル――1980年」中川 2014, pp. 66–116
- ^ a b 写真 2016, pp. 43–45
- ^ “金田一秀穂×三浦徳子 アイドル歌謡の作詞術”. 読むらじる (2019年12月28日). 2020年10月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年10月17日閲覧。
- ^ “松田聖子の80年代伝説Vol.5 松本隆や大滝詠一との出会いが、ポップス史に残る名盤を生んだ4thアルバム『風立ちぬ』〜前編〜 - 【GINZA】東京発信の最新ファッション&カルチャー情報 - COLUMN”. GINZA. マガジンハウス (2020年10月20日). 2021年5月8日閲覧。
- ^ 「特集 続・1位は続くよどこまでも 連続首位獲得記録―アーティスト編」『ORICON WEEKLY』1989年11月6日号、オリジナルコンフィデンス、22頁。
- ^ a b 水原空気; 若松宗雄(インタビュー)「松田聖子の80年代伝説Vol.8 乙女心がおしゃれなWジャケットにギュッと詰まった6thアルバム『Candy』」『ginzamag.column』、マガジンハウス、2021年1月23日。 オリジナルの2021年1月23日時点におけるアーカイブ 。2018年2月22日閲覧。
- ^ “人名索引総合ランキング”. 大宅壮一文庫. 2021年10月29日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 「第一章 夜明け前――1972年~79年」中川 2014, pp. 18–65
- ^ 八幡 和郎『戦国大名県別国盗り物語』PHP研究所、2015年、164頁。ISBN 9784569763392。
- ^ “立花家十七代が語る立花宗茂と柳川 | Q&A”. 2021年12月29日閲覧。
- ^ 福岡県立柳川古文書館
- ^ 大下 1989
- ^ 玉鶴姫の意地。詳しくは「蒲池氏#子孫たち(大木喬任、広津和郎、宇都宮徳馬、松田聖子他)」を参照
- ^ 2021年12月27日読売新聞(大阪本社)朝刊9面、投書「先輩の聖子さん悲しみに胸痛む」
- ^ “平尾昌晃氏、岩崎良美らが見た「松田聖子、誕生の瞬間」”. NEWSポストセブン. 2021年10月31日閲覧。
- ^ 軍司 1992, pp. 299–300
- ^ a b c 相澤 1988
- ^ “サンミュージック相澤会長 松田聖子との17年断絶と涙の再会”. NEWSポストセブン. 2021年10月31日閲覧。
- ^ 亀渕昭信『秘伝オールナイトニッポン 奇跡のオンエアはなぜ生まれたか』(小学館新書、2023年4月、ISBN 9784098254477)p.90 - 92「第3章 宮本幸一 思い込みと『推し』の力」
- ^ a b c d e f g h i j k 「第七章 華燭と大賞――1985年」中川 2014, pp. 277–316
- ^ a b c d e f g h i j 「第八章 緩やかな下降線――1986年~88年」中川 2014, pp. 317–350
- ^ “山口百恵と松田聖子の結婚で決定的に違ったものとは? アイドルと“結婚”というタブーの歴史”. 時事ドットコム (2020年11月19日). 2020年11月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年12月19日閲覧。
- ^ a b “サンミュージック相澤会長 松田聖子との17年断絶と涙の再会”. NEWSポストセブン. 2021年10月31日閲覧。
- ^ a b “故・相澤会長が描いていた聖子再生計画「全盛期の輝きを…」”. 女性自身. 2021年10月31日閲覧。
- ^ MUSIC(エムオンミュージック), 音楽WEBメディア M.-ON!. “松田聖子×財津和夫が37年ぶりにタッグ! 新曲「風に向かう一輪の花」配信スタート&ティザー映像公開”. 音楽WEBメディア M-ON! MUSIC(エムオンミュージック). 2021年1月2日閲覧。
- ^ “神田沙也加に関するお知らせ”. www.sayaka-kanda.net. 2021年12月19日閲覧。
- ^ “松田聖子 あの日は一睡もせず沙也加さんに寄り添った”. スポーツニッポン新聞社. (2021年12月25日) 2022年1月15日閲覧。
- ^ “所属事務所からのお知らせ”. 松田聖子 (2021年12月19日). 2021年12月19日閲覧。
- ^ Inc, Natasha. “松田聖子、今夜のディナーショー中止を発表”. 音楽ナタリー. 2021年12月19日閲覧。
- ^ “松田聖子 ディナーショー大阪公演も中止 23日から4日間 東京に続き 長女・神田沙也加さん急逝 - スポニチ Sponichi Annex 芸能”. スポニチ Sponichi Annex. 2021年12月21日閲覧。
- ^ a b “松田聖子、紅白歌合戦出場を辞退 NHKが発表”. スポーツ報知. (2020年12月25日) 2020年12月25日閲覧。
- ^ “神田正輝、松田聖子と緊急会見…沙也加さん急逝受け「そっとしておいていただけたら」”. スポーツ報知 (2021年12月21日). 2021年12月22日閲覧。
- ^ a b 「第五章 激突――1983年」中川 2014, pp. 203–241
- ^ “ザ・スター松田聖子スペシャル 振り向けば・・・聖子”. 歌謡ポップスチャンネル. 2018年8月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年8月17日閲覧。
- ^ “神田沙也加さん“形見”の「松田聖子御殿」初公開!保存続ける婦人科院長が明かす一家との交流”. Yahoo! News. 女性自身 (2023年1月11日). 2023年1月14日閲覧。
- ^ “クリニック概要”. 成城松村クリニック. 2023年1月14日閲覧。
- ^ 「米へ進出 日本のポピュラー」『日本経済新聞』1991年4月20日付朝刊、p.39。
- ^ “松田聖子がユニバーサル ミュージックに移籍!!”. COMPANY. ユニバーサルミュージック (2009年6月15日). 2024年3月6日閲覧。
- ^ 松田聖子が親子の絆を描いた『わが母の記』イメージソングを作詞・作曲 2012年4月10日 ムービーコレクション
- ^ 松田聖子が再々婚を発表
- ^ “松田聖子、NHKで初のドラマ主題歌 主演の内山理名「うわぁぁ」と感激”. ORICON NEWS (oricon ME). (2017年10月13日) 2017年10月14日閲覧。
- ^ “本日デビュー40周年の松田聖子、6月にアニバーサリーアルバム発売”. natalie. (2020年4月1日) 2021年4月4日閲覧。
- ^ “松田聖子「瑠璃色の地球」34年の時を経てリレコーディング版リリース”. natalie. (2020年7月15日) 2020年7月16日閲覧。
- ^ “松田聖子が40年ぶりに"聖子ちゃんカット"披露”. natalie. (2021年4月1日) 2021年4月4日閲覧。
- ^ “松田聖子が1人8役であの曲をバンド演奏、1980年代に思いを馳せて”. 音楽ナタリー. 2021年6月11日閲覧。
- ^ “松田聖子、今夜のディナーショー中止を発表”. 音楽ナタリー (2021年12月20日). 2021年12月20日閲覧。
- ^ “松田聖子ディナーショー、大阪公演も中止が決定”. 音楽ナタリー (2021年12月20日). 2021年12月20日閲覧。
- ^ “松田聖子、112日ぶりの復帰ステージで涙「この先も沙也加と歌って参ります」”. スポーツ報知. (2022年4月9日) 2022年4月13日閲覧。
- ^ “全国ツアー初日迎えた松田聖子 沙也加さんの曲、思い出の地で涙の熱唱「娘は心に生き続けてくれています」”. SponichiAnnex. (2022年6月12日) 2022年6月12日閲覧。
- ^ “松田聖子、中央大学法学部通信教育課程を卒業「法律を学ぶことができた4年間は素晴らしい時間」”. スポーツ報知. (2024年3月25日) 2024年3月25日閲覧。
- ^ ちょっといい話
- ^ 「白い風は旅人について」若松宗雄チャンネル
- ^ “松田聖子、新アルバムが初登場4位 トップ10入り作品 1位タイ”. ニッカンスポーツ (2021年10月26日). 2021年10月26日閲覧。
- ^ a b c 別冊宝島2611『80年代アイドルcollection』pp.72-73.
- ^ 『明日へ燃える : 大阪ガス80年』大阪ガス、1986年6月、210 - 211頁。NDLJP:11952026/125。
- ^ “松田聖子、トリンプ新ブランドCMでランジェリー姿を披露”. 音楽ナタリー. (2016年5月25日) 2016年5月25日閲覧。
- ^ “日本和装「CM/広告ギャラリー」”. 日本和装 (2021年1月9日). 2021年1月10日閲覧。
- ^ “CM公開中!松田聖子xヒルズアベニュー”. ヒルズアベニュー (2017年2月27日). 2017年2月27日閲覧。
- ^ “松田聖子:「眼鏡市場」新CMキャラクターに”. まんたんWEB (2015年6月26日). 2015年6月26日閲覧。
- ^ “眼鏡市場「CMギャラリー」”. 眼鏡市場 (2015年8月8日). 2015年8月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年8月8日閲覧。
- ^ “眼鏡市場「CMギャラリー」”. 眼鏡市場 (2015年11月20日). 2015年12月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年11月20日閲覧。
- ^ “眼鏡市場「CMギャラリー」”. 眼鏡市場 (2016年4月1日). 2016年4月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年4月1日閲覧。
- ^ “眼鏡市場「CMギャラリー」”. 眼鏡市場 (2016年4月23日). 2016年4月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年4月23日閲覧。
- ^ "松田聖子、映画監督デビュー『あの風が吹いた日』 東京国際映画祭で上映決定". ORICON NEWS. oricon ME. 14 October 2021. 2022年9月20日閲覧。
固有名詞の分類
- 松田聖子のページへのリンク