市川一家4人殺害事件 被害者一家

市川一家4人殺害事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/15 10:30 UTC 版)

被害者一家

本事件の被害者一家は事件当時、現場となった市川市幸二丁目5番1号のマンション「行徳南スカイハイツ」C棟(座標)の806号室に3世代5人で居住し[1]、慎ましくも平穏な暮らしを営んでいた[113]。このマンションは、営団地下鉄(現:東京メトロ東西線行徳駅から南東約1 km離れた東京湾沿いの埋立地にある高層住宅街の一角に建つ9階建てのマンションで、市川水路座標)に面して建っていた[114]。また、このマンションはX宅の玄関から見える位置に所在していた[115]

A・D夫婦は1987年(昭和62年)3月に結婚し、同年8月に雑誌の出版・編集などを手掛ける株式会社[34]「ルック」[注 13]を設立[116]、Dが代表取締役、Aが取締役をそれぞれ務めていた[34]

一家が居住していた806号室は事件後、1年以上空き部屋になっていたが[67]、事件から10年が経過した2002年4月26日時点では[117]、別の住民が入居している[118]

男性A
1949年(昭和24年)8月10日生まれ(42歳没)[34]。Dの夫およびB・E姉妹の父親で、Cの息子に当たる[2]
群馬県で生まれ[119]立教大学を卒業後は性風俗関係の雑誌で取材・撮影をしており、ロス疑惑で注目された三浦和義スワップ写真を撮影したこともあった[116]。後に仕事を通じてDと知り合い、1987年に結婚[120]。Dの連れ子であるBのことも実子同然に可愛がっており、仕事仲間に対し「結婚したら大きな娘が出来ちゃったよ」と自慢していた[121]。結婚後は年頃の娘を持ったため、風俗関係の仕事からは離れ[31]、事件の数年前からは料理専門のフリーライター・カメラマンに転身して『月刊食堂』(柴田書店)で「繁盛の秘訣」という連載記事を手掛けたり、漫画誌のグルメ欄を担当したりしていた[122]。また『月刊食堂』の元編集長・玉谷純作に対しては「ベルギーのペンションを買いたい。ベルギーならドイツにもフランスにもすぐに行ける。〔事件の発生した〕1992年にEC統合があるので、あちらに拠点を持って活動したい」と話していた[116]
3月6日0時30分ごろ、Sに柳刃包丁で背中を刺され失血死した[36]。死亡した被害者4人の中で、3番目に殺害された犠牲者である。
少女B
1976年(昭和51年)3月19日生まれ(事件当時15歳)[34]。A・D夫婦の長女で、Cの孫、Eの姉に当たる[2]
母Dと前夫との間に生まれ、DがAと結婚した際に養父であるAと養子縁組して改姓した[34]。事件当時は船橋市内にある県立高校の1年生で、クラスの副委員長を務めたり、演劇部・美術部で活動したりしており、将来は美術関係の大学に進学することを夢見ていた[34]。中学時代の3年間は毎日妹Eを保育園のバスで送迎しており、事件直前には小学校の同級生に対し「将来はお母さんと同じカメラマンになりたい」「新しいお父さんも本当のお父さんのように優しい」と話していた[123]
被害者一家5人の中で唯一生存したものの、本事件前にSによって2回強姦され[34]、本事件では目の前で母親D、父親A、妹Eを次々に殺害され、その間にも強姦被害を受けた[36]。事件後は熊本県の母Dの実家に引き取られた(後述)。
女性C
1908年(明治41年)7月4日生まれ(83歳没)[34]。Aの母親で、Dの義母、B・E姉妹の父方の祖母に当たる[2]
横浜で生まれてAの父親と結婚し、夫が電気絶縁材料を扱う大手メーカーの工場で働いていた時期に長男Aを出産した[124]。しかし夫はAが中学生の時に胸の病気を悪化させて亡くなっており、それ以降は東京で女手一つで息子を育てていた[124]。事件当時は高齢だったため、散歩に出る時以外は玄関北側の自室で過ごすことが多かった[34]
3月5日16時30分ごろ、806号室に侵入してきたSによって首を絞められて窒息死した[4]。死亡した4人の中で最初の犠牲者である。
女性D
1955年(昭和30年)6月19日生まれ(36歳没)[34]。熊本県八代市出身[1]。Aの妻で、Cの義理の娘、そしてB・E姉妹の実母である[2]
地元の高校を卒業後に結婚したが、長女Bを出産した直後に離婚した[125]。それ以降は20歳代前半で上京すると、女手一つでBを育てながら証券会社の事務職、建設会社の経理、ダンプカーの運転手、水商売などの職を転々とし[125]、千葉市栄町の風俗店に勤めていたころに客からの勧めで、風俗誌などのルポライターに転身[126]。「中村小夜子」のペンネームで夕刊紙にソープの探訪記事を書くなどしていたが[注 14][116]、Bが小学校5年生の時[125]、仕事を通じてAと知り合い[123]、結婚した[121]。Aとの間に生まれた次女Eを出産後は、夫とともに料理関係のライターとして働いていた[116]
3月5日19時過ぎごろに長女Bとともに帰宅した直後、Sに柳刃包丁で背中を刺され失血死した[4]。死亡した4人の中で2番目に殺害された。
女児E
1987年(昭和62年)3月17日生まれ(4歳没)[34]。Bの妹で、Cにとっては2人目の孫である[2]
A・D夫婦の間に生まれ[34]、事件当時は東京都江戸川区内の保育園に通園していた[注 15][128][129]
3月6日6時30分ごろ、Sに柳刃包丁で背中を刺され失血死した[36]。死亡した4人の中で最後に殺害された。

注釈

  1. ^ a b 事件が発生した1992年当時、現場一帯(市川市行徳地区)の所轄警察署は葛南警察署(管轄区域は行徳地区と浦安市全域)だったが、事件後の1995年3月7日に同署から独立する形で、行徳地区を管轄する「行徳警察署」が発足[10]。これに伴い、葛南署は管轄区域を浦安市のみに変更すると同時に、「浦安警察署」へ改称した[10]
  2. ^ a b c d Sの上告審判決に対する訂正の申立は、2001年12月20日付の決定で棄却された[49]。『読売新聞』 (2001) では「決定が出されてから21日までに死刑が確定した」と[303]、『中日新聞』 (2001) では、「〔2001年12月〕21日に判決が確定した」とそれぞれ報道されている[306]。光市母子殺害事件における検察官の上告趣意書および[24]、2007年(平成19年)11月に福田康夫(当時の内閣総理大臣)が第168回国会で提出した答弁書(1977年1月1日 - 2007年9月30日までの30年間に確定した死刑判決の事件名および確定年月日がまとめられている)によれば、Sの死刑確定は12月21日付である[25]。厳密には訂正申立を棄却する決定が、被告人の下に送達された時点をもって刑が確定する[307]
  3. ^ Sは1991年ごろの時点で、身長・体重とも平均を遥かに凌駕するほどに成長していた[33]。なお、『千葉日報』および飯島真一 (1994) は第一審判決を言い渡された当時のSについて「身長177 cm、体重90 kg」と述べている[56][27]。また、『女性自身』 (1994) は事件当時のSについて「身長182 cm」と述べている[57]
  4. ^ Yは短大卒業後の1967年(昭和42年)、24歳の時に区役所のダンス教室で、東芝の関連会社に勤務していたZ(当時25歳)と知り合った[62]。Xは当初、娘YがZと結婚することに反対していたが、2人は駆け落ち同然の形で結婚し、Xも初孫となるSの誕生をきっかけに結婚を認めた[63]。『週刊文春』 (1992) によれば、夫婦は結婚直後の1969年(昭和44年)に江戸川区松本町へ転居したが、事件の17、18年前(1974年 - 1975年ごろ)に夜逃げ同然に家を出たという[64]
  5. ^ Xは親の代から食品加工と卸の自営業を営んでおり[65]第二次世界大戦の終戦直後、茨城県から上京し、江戸川区松島でウナギの卸業を始め、後に市川市を中心に10軒近い鰻屋を展開するチェーン店のオーナーとなった[62]。朝倉喬司 (1992) は、Xについて「S・N氏」と表記している[66]。宇野津光緒 (1993) は、「X商店」について「市川市付近でウナギ屋6店を経営」と述べている[67]
  6. ^ 永瀬隼介 (2004) は、Z・Y夫婦はSの出生前にZの実家(松戸市)に新婚所帯を構えていた旨を述べている[63]
  7. ^ この公団住宅には当時、有名企業の社員・医者・実業家などの高額納税者が多数居住していたが、Sの居室のすぐ上の階には、「当時、日本中を席巻していた漫才ブームで一、二の人気を争った漫才コンビのひとり」が住んでおり、その漫才師の息子がSの弟と同年齢だったこともあって、Sはこの漫才師一家と交流があった[68]
  8. ^ 中学1年の(1985年)11月ごろまでは立石六丁目のアパートに、それ以降の3年間は立石七丁目の新築アパートに暮らしていた[64]
  9. ^ Yはさらに2年後には船橋市内のテラスハウスへ移住したが、その3、4か月後には市川市の分譲マンション(事件当時、Yが次男とともに住んでいた)に移住した[97]
  10. ^ 堀越高校の硬式野球部グラウンドは八王子市にあった[95]。また、朝倉喬司 (1992) は甲子園を目指していたはずのSが高校入学後、硬式野球部ではなく軟式野球部に入部した理由について、「中3の冬、自転車で転んで腕に大ケガをしたのが響いたためのようだ」と述べている[100]
  11. ^ Sは1991年末、タクシー運転手をナイフで傷つける傷害事件を起こしていたが、これはYが示談にして収めていた[69]
  12. ^ しかし、朝倉の取材を受けたSの家族の知人は「眼球破裂でXの片目が不自由になったという報道は誤りで、Xはこの事件以前から緑内障で千葉大学病院に通院していた」と証言している[100]。この一件で、Sは入院したXを見舞って謝罪している[96]
  13. ^ a b AとDが生前経営していた「株式会社ルック」の事務所は、「渋谷第一ビル」204号室に入居していた[184]。同ビルの所在地は、市川市行徳駅前二丁目8番6号(座標)で[185]、1階の101号室にはファミリーマート行徳駅南口店が出店していた[184]。この部屋は、DがAと結婚する前、写真の勉強をするために借りていた部屋で、Aとの結婚後に会社を設立するにあたり、事務所として使用するようになった[1]
  14. ^ 『週刊文春』 (1992) は、A・D夫婦の友人の「Dは女性にしかわからない風俗産業の機微を描いて世に出た」という声を報じている[127]
  15. ^ 千葉地裁 (1994) では市川市内の保育園とされている[34]
  16. ^ ゼンリン発行の江戸川区の住宅地図(1991年版および1996年版)によれば、江戸川区上篠崎四丁目12番3号に「(株)S(本事件の死刑囚Sと同一姓)○商店 うな重」という店舗が所在していた[131][132]。その後、2000年版では同地は更地になっており[133]、2022年時点では、篠崎公園9号地になっている[134]
  17. ^ Sの妻となったエリザベスは1970年(昭和45年)10月29日生まれ[33]
  18. ^ 永瀬 (2004) は、
  19. ^ 福島 (1995) は、生徒手帳に書かれていたBの住所氏名について「メモしたか、その部分を破り取って保管した」と述べている[147]
  20. ^ 永瀬 (2004) は、この時にSがクラウンを急加速させて丁の車に異様に接近したり、パッシングする、クラクションを鳴らすなどして煽った旨を述べている[160]
  21. ^ 永瀬 (2004) は、Sが恐怖する丁に対し、自宅まで案内させるよう要求したが、丁が曖昧な内容の返事をして自宅に行こうとしなかったことに憤慨し、何度もナイフで切りつけた旨を述べている[161]
  22. ^ Sに突き飛ばされた際、Cは右尺骨・右骨折を離開骨折している[171]
  23. ^ 当時の状況について、Sは捜査段階で「テレビの前に座らせたらおとなしくじっと見ていたため、そのままにしておいたら眠った」と供述している[179]
  24. ^ 千葉地裁 (1994) では「300万円位」[36]、永瀬 (2004) では「200万(円)」となっている[180]
  25. ^ 「ホテル ラセーヌ」は、市川市塩浜三丁目10番3号(座標)に所在していた[188]
  26. ^ 現場の上階(9階)に住んでいた住民は、「夜中、下の階でドアを叩く音が聞こえた」[190]「昨夜1時すぎ、ドアを激しくたたく音がした。長く続くので怖くて出られなかった」と証言している[191]。一方、事件当夜から翌朝まで「物音は何も聞こえなかった」という現場と同じ8階の住民の証言もある[191]
  27. ^ この時、SがBに握らせた包丁は、千葉地裁 (1994) では「文化包丁」とされているが[171]、永瀬隼介 (2004) は、凶器として用いられた柳刃包丁だった旨を述べている[198]
  28. ^ 一部のスポーツ新聞は、Bが養女である点に注目していた[202]。その後、Sの単独犯が判明すると多くのメディアは「養女」から「長女」呼称に切り替えた[206]
  29. ^ 本事件の少し前には、北海道で娘が男友達と共謀し、両親を殺害するという事件が発生していた[206]
  30. ^ 当初の留置期限は6月25日までだったが、地検はその後、さらに慎重を期すため、鑑定期間を9月上旬まで延長した[213]。当時、千葉地検の次席検事を務めていた甲斐中辰夫は、「Sの精神に異常があるとは考えていないが、凶悪性、残虐性など事件の内容が内容なだけに、あくまで慎重を期していきたい」と話していた[212]
  31. ^ その間、新たに法務大臣に就任した人物は、長谷川信梶山静六左藤恵田原隆と4人にわたるが、4人とも死刑執行命令を出すことはなかった[231]。その理由について坂本 (2010) は、「1990年は天皇即位の礼などが行われていたが、加盟国すべてが死刑を廃止した欧州連合 (EU) の影響を受けたためではないか」と指摘している[232]
  32. ^ a b 半田保険金殺人事件の死刑囚(2001年12月27日に死刑執行)の刑を確定させた、1993年9月21日の上告審判決(最高裁第三小法廷)。園部逸夫裁判長以下、裁判官5人(貞家克己佐藤庄市郎可部恒雄大野正男)全員一致で控訴審判決(死刑を言い渡した第一審判決を支持し、被告人側の控訴を棄却)を支持したものであるが、大野は補足意見で、死刑合憲判決(1948年3月12日大法廷判決)から45年が経過していることを踏まえ、その間に海外で死刑廃止が進んだこと、死刑囚4人(免田事件財田川事件松山事件島田事件の各死刑囚)が再審によって逆転無罪になったこと、その一方で死刑を支持する日本国民の意識は40年近くほとんど変化していないことなどを踏まえ、「死刑の廃止に向かいつつある国際的動向と、その存続を支持する我が国民の意識とが、このまま大きな隔たりを持ち続けることは好ましいことではないであろう。」と指摘し、その整合を図るための方法として、死刑の実験的停止や、現行の無期刑(服役10年を過ぎれば仮出獄の対象となりうる)とは別種の無期刑を設けるなどの提言をしている[266]
  33. ^ 3人同時執行は26年ぶり[240]
  34. ^ 『朝日新聞』 (1993) は、弁護側が「常人の理解を超えている」と主張した事件は、同年2月17日に追起訴された事件(中野事件・河原事件・岩槻事件)という旨を述べている[40]
  35. ^ 『読売新聞』は、Sが殺意に関する質問で「その時は殺すつもりはなかった」「(背中を刺して)死ぬとは思わなかった」と主張した旨を[248]、『朝日新聞』はCとEの両名について故意で犯行におよんだことを認めたという旨を報じている[40]
  36. ^ 刑法第46条1項「併合罪のうちの一個の罪について死刑に処するときは、他の刑を科さない。ただし、没収は、この限りでない。」に基づく[216]
  37. ^ 神田は退官後、弁護士になった。2008年には『毎日新聞』の取材に対し、「人の命が奪われるのだから良かったなんて思わない。被告に憎しみは持たないし持ってはいけないと思う」と回顧している[269]
  38. ^ June Machover Reinisch (ジューン・マコーバー・ライニッシュ)が1981年、『サイエンス』誌上で発表した論文「Prenatal Exposure to Synthetic Progestins Increases Potential for Aggression in Humans」(訳題:合成プロゲスチンへの出生前曝露は、人の攻撃行動を潜在的に高める)[278]
  39. ^ 上告趣意書にはSの両親(父Z・母Y)らが行った数々の贖罪のための行動について記されているが、その中で最新の日付は1998年9月23日(父Xが熊本を訪れた日)である[285]
  40. ^ 2001年11月27日付で、最高裁第二小法廷が被告人Sからなされていた申立を却下する決定[平成13年(す)第509号]を出している[299]
  41. ^ 同日付で、最高裁第二小法廷はSからなされていた裁判官忌避の申立てを却下する決定[事件番号:平成13年(す)第518号]を出している[301]。これに対し、Sは異議申立てを行ったが、同月11日付の決定[事件番号:平成13年(す)第530号]で棄却されている[302]
  42. ^ それに先立ち、Sは判決訂正の申立て期間延長を(2件)申し立てたが、同月12日付[平成13年(す)第534号]、および13日付の決定[平成13年(す)第539号]で、いずれも棄却されている[304][305]
  43. ^ 大宮母娘殺害事件で刑が確定した死刑囚(当時48歳:東京拘置所在監)と、長崎雨宿り殺人事件で刑が確定した死刑囚(当時62歳:福岡拘置所在監)の2人で、後者は第7次再審請求中だった[318]
  44. ^ Sと永瀬の面会は2001年1月下旬で[327]、それ以降は死刑確定が迫ったことから、関係者らが交代でSと面会するスケジュールを組んでいたため、永瀬は面会できなかった[328]。Sから届いた最後の手紙は同年11月下旬の、判決期日が指定された旨を連絡するものだった[329]
  45. ^ 2018年時点では、「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム'90」(フォーラム90)が同様の調査を実施している[339]
  46. ^ 1993年3月26日に死刑を執行された死刑囚3人のほか、同日時点で拘置中だった死刑囚、そして同日以降に死刑が確定した死刑囚たちが調査対象である。
  47. ^ Sの死刑確定以降、2002年5月10日[341]、2003年5月末[342]、2004年7月末[343]、2005年7月31日と[344]、「死刑廃止の会」が計4回にわたって収監中の死刑確定者について調査を行ったが、いずれもSが再審請求をした旨の記述はなかった[345][346][347][348]。2006年9月15日付の調査で[340]、初めて「再審請求中」との記載が出ている[349]
  48. ^ 松井喜代司は上告中、『週刊金曜日』宛に実名で「死刑制度は犯罪防止にならない」というタイトルの投書を寄稿し、同誌1999年1月22日号にその投書が掲載されている[353]
  49. ^ 安田はこの再審請求書の内容について、「本当に全ての行為を彼がやったのかどうか、つまり、第三者が関与した可能性はなかったのか……(中略)……特に、重要参考人が行方不明になっており、私たちは、その人が事件に関与しているのではないかと、探し続けていました。」と述べている[355]
  50. ^ 日弁連死刑廃止検討委員会事務局長・小川原優之は『中日新聞』の取材に対し「犯行当時少年の場合は判断能力が成人より劣っている上、家庭環境・社会の影響も強く受けている。事件の責任を個人に負わせるのは相当ではなく、死刑を執行すべきではない」「死刑確定者も『犯人性への疑い』だけでなく『責任能力の問題』『量刑不当』など様々な論点で再審を請求しているため、そのような人々から裁判で争う機会を奪うのは問題だ」と意見を述べた[357]
  51. ^ 稲田幸男(社会部長)は、5人全員を匿名で報道した理由について「長女 (B) が生き残っているという点を重視した。両親(AおよびD)の名前を書けば、結果として長女が誰かも特定されてしまう」と述べている[209]
  52. ^ 橋本直(編集局次長)は、Bを実名報道した理由について「一報では、警察が長女 (B) に疑いを持っている状況だったので匿名にしたが、7日の朝刊段階では長女が完全な被害者であることが判明し、そのことをはっきり示すためにも実名の方がいいと判断した。しかし陰惨で気の毒な事件であり、被害者は一刻も早く事件を忘れたいだろう。今後の報道の仕方は考えたい」と述べている[209]
  53. ^ 2022年(令和4年)4月1日に施行された改正少年法では、罪を犯した18歳・19歳の者(民法上は「成人」として扱われるが、引き続き少年法の適用対象となる)を「特定少年」として扱い、同日以降に起訴された「特定少年」については氏名・年齢・職業などの個人が特定できる内容の報道(推知報道)を認める規定がなされた[367]。同改正で新設された第68条の規定によるもので、同年4月8日に起訴された事件当時19歳の少年(甲府市殺人放火事件の犯人)が初適用例となった[368]
  54. ^ 法務省は2007年12月7日の死刑執行(藤沢市母娘ら5人殺害事件の死刑囚ら、3人が対象)以降、被死刑執行者の氏名・犯罪事実の概要を公表している[384]
  55. ^ 1993年3月時点で、Bが通学していた千葉県立高校の学校関係者は宇野津光緒の取材に対し、裁判が始まって以降は動揺が激しく、在学はしているものの通学は困難な(まだ普通の生活ができていない)状態である旨を述べている[391]
  56. ^ 記者は三浦春子・堀ノ内雅一の両名[394]。Bがマスコミからの取材を受けたのはこれが初だった[393]
  57. ^ 美術系の大学[395]。Bは『女性自身』の記者に対し、(事件当時在学していた)千葉の高校はみな専門学校に通学するため、同校にいた当時は大学進学は考えていなかったが、転校先の高校は進学校で、周囲の影響を受けて自分も大学進学を決めたことや、転校前に文化祭で舞台美術をした経験などがあったため、そのような方向を志して美術大学を受験したという旨を述べている[145]。当時、担任も親戚もBが現役で大学の入試に合格することは不可能と考えており、担任は高校の卒業式の前日、Bから合格の報告を受けて驚いていた[57]
  58. ^ 1997年にはベルギーに行っていたため留年したという[398]
  59. ^ 1987年7月8日未明、東京都目黒区東が丘一丁目で、区立第十中学校の2年生男子生徒(当時14歳)が、就寝中だった父親(当時44歳:会社役員)、母親(当時40歳)、父方の祖母(当時70歳)の3人を、肉切り包丁(刃渡り21 cm)で滅多刺しにして殺害した事件[421]。犯人はまず、金属バットで母親の顔面を殴ったところ、父親に気づかれてバットを取り上げられ、母親も電話しようとしたため、あらかじめ用意していた肉切り包丁を使って両親を滅多刺しにし、さらにそれに気づいた祖母も滅多刺しにした[421]。犯人は両親から厳しく勉強させられていた一方、祖母からは溺愛されていた[107]。事件は、同年5月の中間試験での成績不良を両親から厳しく叱責され、父親から「期末テストの成績が悪かったら家から追い出す」と頭を2回げんこつで殴られていた犯人が、期末試験でも数学のテスト(数量テスト50点+図形テスト50点=100点満点)の数量テストでわずか5点しか取れなかったことから、両親や祖父母を殺害した上で、かねてから抱いていた「好きなタレントにいたずらしてから自殺しよう」という考えを実現させるべく決行したもので、3人を殺害する前夜には、同級生の友人に両親殺害と、タレントへのいたずらの計画を手伝ってほしいという電話をかけていた[422]。犯人は事件後、同月29日付で東京地検から「長期(原則2年)の少年院送致が相当」という意見付きで東京家裁へ送致され[422]、同年10月6日付で、東京家裁から初頭少年院送致の決定を下されている[423]
  60. ^ 同規則2.2 (a) で「少年」 (juvenile) とは、「各国の法制度の下で犯罪のゆえに成人とは異なる仕方で扱われることのある児童 (child) もしくは青少年 (young person) 」と定義されている[431]

出典

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