プロヴディフ 歴史

プロヴディフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/19 23:28 UTC 版)

歴史

古代

古代ローマ時代のオデオン

プロヴディフにおける人の居住の歴史は、紀元前4千年ごろの新石器時代にまでさかのぼる[2]。考古学者たちによって、新石器時代にさかのぼる陶磁器やその他の物品が発見されたことにより、少なくとも紀元前4千年紀の末には既にこの地に集落が形成されていたことがわかっている[9][10][11]マルケリヌス・アンミアヌスによると、青銅器時代以降の、書物に記された歴史の中で、プロヴディフはトラキア人の要塞として「エウモルピアス」の名で記されている。紀元前4世紀には交易市(パナギュレイス panegyreis と呼ばれる)の拠点となっていた[12]。紀元前342年、アレクサンドロス3世の父であるピリッポス2世に征服され[13]、街はピリッポポリス(Φιλιππόπολις / Philippopolis、「ピリッポスの街」の意味)と改称された。後に再びトラキア人の手にわたると、この呼称をトラキア語化したプルプ=デヴァ(Pulpu-deva)の名で呼ばれるようになった[14]

紀元72年、ローマ人の将軍テレンティウス・ヴァロ・ルクルス(Terentius Varo Lukulus)によって征服され、ローマ帝国の版図に組み込まれ[15]、街はトリモンティウム(Trimontium、「3つの丘の街」の意味)と呼ばれ、トラキア属州の中心都市(メトロポリス)として機能した。1世紀末には市としての地位を付与されている[16]。トリモンティウムはローマ帝国における重要な交通の要衝となり、ルキアノスは「あらゆる都市の中で最も大きく、最も美しい」と評した。街はトラキア属州の州都とはならなかったものの、属州で最大かつ最も重要な都市となった[17]。この時代、ミリタリス街道(Via Militaris、あるいはディアゴナリス街道)と呼ばれた、バルカン半島で最も重要な軍用道路がこの街を通過していた[18][19]

これ(プロヴディフ)はあらゆる都市の中で最も大きく、美しい。その美ははるか遠方からも輝いている
ローマの詩人ルキアノス

ローマ時代には、街とその文化は大きく発展を見た[20]。こんにち残される古代遺跡には、活気にあふれ、成長する街の様子をうかがい知れる数多くの公共施設や神殿、浴場、劇場などがみられる。街には発達した上水道および下水道が整備されていた。また、街は2重の城壁に取り囲まれ、守られていた。その一部は現在も保存されており、観光で見ることができる。現在のところ、古代都市の中で発掘されているのはごく一部に過ぎない[21]

中世

スラヴ人は6世紀中葉ごろにこの地域に住み着き、地域の民族構成を一変させた[22]681年第一次ブルガリア帝国が建国されると、フィリッポポリスは東ローマ帝国の最前線を守る重要な要塞となった。812年にブルガリア帝国のクルム・ハーンによって征服されたが、完全にブルガリア帝国の領域に組み込まれたのは834年のマラミル・ハーンの時代であった[23]。その後、ブルガリアの統治下に留まったのはわずかのことであり、855年-856年に東ローマによって再征服された[24][25]。東ローマ帝国の統治下で、帝国の東部国境から持ち込まれたパウロ派が広まり、その一大拠点となった。フィリッポポリスでは、二元論の影響が広まってボゴミル派が形成される土壌が作り上げられた。ブルガリアのシメオン1世(893年-927年)の時代に、この街をはじめとする東ローマのバルカン半島の領地はほぼ全てブルガリアの手に落ちた。シメオンの息子・ペタル1世(927年-969年)の時代まで、この地はブルガリア帝国の統治下に留まった[26][27]

970年、東ローマと一時的な同盟関係の下にあったペタルは、北方から侵入するスヴャトスラフ1世と対峙していたが、ペタル指揮下の東ローマ軍はこの地で、スラブ人などによって構成されるスヴャトスラフの軍の前に壊走した[28]。その後ブルガリアは弱体化し、この地は再び東ローマの手に落ちた。街は再びフィリッポポリスと呼ばれるようになり、東ローマ的特徴を強めていった。

クルムハーンは、プロヴディフを統治下に収めた初のブルガリアの統治者である。

Aime de Varennesは1180年にこの街で、1300年前のアレクサンドロス大王とその後継者たちの業績を物語る東ローマの歌唱に出会っている[29]。1204年には東ローマに代わってラテン帝国がこの地の支配者となったが、ブルガリア帝国のカロヤン・アセンが死去する1207年までの間、2度にわたって短期的にカロヤンによって占領された[30]。1208年、カロヤンの後継者ボリルは、プロヴディフの戦いにてラテン帝国に敗北している[31]。ラテン帝国の統治下では、プロヴディフはフィリッポポリス公国(Duchy of Philippopolis)の首都となり、公国はルニエ・ド・トリ(Renier de Trit)、次いでジェラール・ド・ストラン(Gerard de Strem)によって治められた。ブルガリア皇帝イヴァン・アセン2世の下、1225年から1229年までの間、再びブルガリア統治下となった。1263年、プロヴディフは東ローマ帝国に征服され、再びその統治下となった。その後、ゲオルギ2世テルテルによって征服される1322年までの間、東ローマの統治下に服した[32]。1323年には再び東ローマの統治下となるが、ブルガリアのイヴァン・アレクサンダルが、ヨハネス6世カンタクゼノスの側について東ローマの皇帝内乱に介入し、その見返りとして1344年にはプロヴディフと他の8つの都市がブルガリアに与えられた[33]

1364年に、ララ・シャヒン・パシャ引きいるオスマン帝国軍は、プロヴディフを制圧した[34][35]。トルコ人たちは街を「フィリベ」と呼んだ。1382年にオスマン帝国がソフィアを征服するまでの間、この地がオスマン帝国領ルメリアの中心地となった。プロヴディフはその後も、ブルガリア人の文化・伝統の拠点として生き続けた。「プロヴディフ」の呼称が初めて登場するのはこの頃であり、トラキア語での呼称「プルプ=デヴァ」(プルプはピリッポス、デヴァは街を意味した)に由来している。はじめスラヴ人たちはこの街を「プルディン」(Пълдин / Pəldin)あるいは「プルヴディン」(Плъвдин / Pləvdin)と呼んでいた。

民族復興期

プロヴディフの生神女聖堂

オスマン帝国の統治下で、プロヴディフは帝国のルメリア東部におけるブルガリア民族復興運動の中心地となった。この時代、プロヴディフはイスタンブールエディルネテッサロニキと並ぶ帝国の重要な経済拠点となっていた。この時代、裕福な市民たちは美しい家々を建てており、その多くは現在も旧市街に残されている。帝国の統治下では、1364年から1864年までルメリア州、1864年から1878年までエディルネ州に属し、その後東ルメリ自治州の州都となった。

この地は、ブルガリアの教会がギリシャの教会からの独立を勝ち取るための戦いの中で重要な役割を果たした。ナイデン・ゲロフ(Nayden Gerov)、ゲオルギ・ヴルコヴィッチ(Georgi Valkovich)、ヨアキム・グルエフ(Joakim Gruev)などの指導者の下、ブルガリアの文化的な独立を求める闘争が繰り広げられた。1836年、ブルガリアで初の学校が開校し、1850年には聖キリル・メフォディイ学校の開校によって現代的な世俗的教育が始まった。1858年5月11日には、初めて聖キリル・メフォディイの日が祝福された。この日は後に全国的な公定祝日となり、現在でも祝われている。1858年には生神女聖堂(Church of Virgin Mary)にて、オスマン帝国時代初期以来となるブルガリア語による奉神礼が復活した。1868年に学校は拡張され、初の小学校となった。ブルガリアの著名な知識人や政治家、精神的指導者らがこの学校を卒業している[14]

1878年のプロヴディフの戦い(Battle of Plovdiv)によって、街はオスマン帝国の直接支配から解放された[35]

東ルメリ自治州

1878年3月3日サン・ステファノ条約では、ブルガリア公国の領土にはブルガリア人が多数を占める領土の大部分が含まれていた。プロヴディフは当時、最も多くのブルガリア人が居住し、繁栄していた都市であったため、公国の首都、ロシアによる暫定統治の首都として選ばれた[36]。しかし、イギリスオーストリア=ハンガリー帝国はブルガリアの広大な領土を承服せず、露土戦争の最終的な決着はベルリン会議に持ち越された。ベルリン会議では、ブルガリア公国の領土とされた領域を複数の地域に分割した。その中で、ブルガリアの南部の領土の多くはオスマン帝国の東ルメリ自治州に属するとされ、プロヴディフは東ルメリ自治州の州都となった。オスマン帝国は憲法を制定し、知事を任命した[37]。1985年1月1日の時点で、プロヴディフの人口は33,442人であり、うち16,725人はブルガリア人(50%)、7,144人はトルコ人(21%)、5,497人はギリシャ人(16%)、2,168人はユダヤ人(6%)、1,061人はアルメニア人(3%)、151人はイタリア人、112人はドイツ人、112人はロマ、80人はフランス人、61人はロシア人、その他の民族に属するのは304人であった[38]

1885年の春、ザハリ・ストヤノフ(Zahari Stoyanov)は秘密ブルガリア中央革命委員会をこの地で創設し、ブルガリアと東ルメリ自治州の統合を求めるプロパガンダを活発に行った。9月5日には、ゴリャモ・コナレ地区(現在のセアディネニエ地区 Saedinenie)にて、数百人の武装した反乱軍がプロヴディフの中心地に向けて行軍を始めた。5日から6日にかけての夜、ダナイル・ニコラエフ(Danail Nikolaev)指揮下の反乱軍は、街の支配権を確立し、庁舎から知事のガヴリル・クルステヴィッチ(Gavril Krastevich)を引きずり出した。ゲオルギ・ストランスキ(Georgi Stranski)を首班とする臨時政府が樹立され、総動員が発布された[39]。セルビア・ブルガリア戦争においてセルビアが敗北すると、ブルガリアとオスマン帝国との間で合意が成立し、ブルガリア公国と東ルメリは共通の政府、議会、統治機構、軍を持つものとされた。9月6日は国家統一の日、およびプロヴディフの日として祝福されている。

近現代

ブルガリア統一の後、プロヴディフはブルガリアの首都ソフィアについで2番目に大きな都市となった。街で初めての鉄道は1874年に開通し、1888年には鉄道はソフィアと結ばれた。1892年には第1回ブルガリア・フェアの開催地となり、多くの国際的な参加を集めた。これは後の国際プロヴディフ・フェアへと継承されていった。オスマン帝国からの解放後、初のビール醸造所が設立された。

20世紀初頭、プロヴディフは製造業、商業の拠点として発展を遂げ、軽工業や食品産業が発達した。ドイツフランスベルギーからの資本が投入され、プロヴディフは現代的な流通、金融、製造業の拠点へと変貌した。1939年の時点で、1万6千人の職人と1万7千人の工場労働者が製造業に従事しており、その中心は食品やタバコ加工であった。第二次世界大戦の時代、タバコ産業は大きく成長し、野菜や果物の輸出も伸びた。1943年、1500人のユダヤ人が、プロヴディフ大主教キリルによって強制収容所送りを免れた。キリルは後にブルガリア総主教となっている。

1956年4月6日、初のトロリーバス路線が開業し、1950年代にはトリモンツィウム・ホテルが建造された。1960年代から1970年代にかけては建設ブームとなり、多くの現代的な郊外地区が形作られた。1970年代から1980年代にかけて、旧市街に残された古代の遺品の発掘が終わり、旧市街が復興された。1990年には複合体育施設「プロヴディフ」が完成した。同施設には当時最大の競技場や、競漕用の池が含まれる。この時代、プロヴディフはブルガリアにおける民主化運動の発祥の地となり、1989年末には共産党による一党独裁体制が崩壊した。

プロヴディフは過去に3度の国際博覧会の主催地となっている(1981年1985年1991年)。










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