プロヴディフ 行政

プロヴディフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/19 23:28 UTC 版)

行政

プロヴディフはプロヴディフ州の州都であり、プロヴディフ基礎自治体の行政府所在地であるとともに、隣接するマリツァ基礎自治体ロドピ基礎自治体の行政府所在地でもある。2015年現在のプロヴディフ自治体の市長はIvan Totevである。また、プロヴディフは6つのラヨン)に分かれており、それぞれの区長が区の行政を担っている。プロヴディフ自治体の議会には51の議員がおり、自治体の立法を担っている。議員は比例代表制によって選出される[45]。プロヴディフ自治体の行政府は、議員の多数決で選ばれた市長と、5人の副市長、1人の行政長官からなる。副市長と行政長官は、それぞれ担当する部門の長となる。

「首都自治体および大都市の下位行政区分に関する法律」[46]によって、プロヴディフ自治体は6つの区(ラヨン)に分けられている。それぞれの区長は、市議会の議決によって指名される。

プロヴディフの6つの区

  • 中央区
  • 北区
  • 南区
  • 東区
  • 西区
  • トラキヤ区

1969年、プロスラフ(Proslav)とコマテヴォ(Komatevo)の両村がプロヴディフの市街地に組み込まれた。1987年、プロヴディフ自治体から、市街地に含まれない周囲の村々を切り離し、マリツァ自治体ロドピ自治体が成立した。両自治体の行政府は、プロヴディフに置かれている。両自治体の住民の間では、プロヴディフ自治体への復帰を望む声もある[47]

みどころ

プロヴディフは一大文化拠点であり、市内には200を超える考古学的遺跡があり[48]、うち30が国の重要指定をうけている。プロヴディフには2つのローマ劇場があり、また中世の城壁跡や塔、オスマン帝国の浴場(ハマム)やモスク、旧市街に立ち並ぶ保存状態の良い民族復興期の邸宅群、聖堂、細く入り組んだ石畳の路地が残されている。街には数多くの博物館、画廊や文化的機関が置かれ、音楽、演劇、映画などの文化的催しを主催している。

またプロヴディフは、バチコヴォ修道院(Bachkovo Monastery、南に30キロメートル)、スキー・リゾート地パンポロヴォ(Pamporovo、南に90キロメートル)や、ヒサリャ、バニャ(Banya)、クラスノヴォ(Красново)、ストレルチャなどの温泉地へのアクセスの起点となる[49]。50を超えるホテルには合わせて7000床を超えるベッドがあり、この他にホステル等の各種宿泊施設がある[49]

ローマ都市

プロヴディフのローマ劇場

プロヴディフのローマ劇場は、ブルガリアで最も著名な古典古代の遺跡のひとつに数えられる[50]。これは、ローマ帝国統治下の2世紀初頭に、皇帝トラヤヌスによって建造されたものである。ローマ劇場はジャンバス・テペとタクシム・テペの2つの丘のあいだに挟まれた鞍部に築かれている。客席は14列あり、直交する階段によって区切られている。この劇場の収容能力は7千人である[51]。南側には3階建ての舞台があり、フリーズコーニス、像によって装飾が施されている。1968年から1984年にかけて、この劇場の調査、保存と修復が進められた。こんにちでは、ジュゼッペ・ヴェルディ・フェスティバルや国際民俗フェスティバルをはじめ多くの催しがこの舞台で開かれる[52]。もうひとつのローマ劇場(オデオン)は2004年に修復が終わった[53]。これは、2世紀から5世紀ごろに建てられたもので、350席を有する小さな劇場である。これは、はじめは市議会の建物として建造され、後に劇場として改修されたものである。

プロヴディフの円形競技場
ローマ水道

プロヴディフの円形競技場(Roman Stadium[54]は、ローマ劇場と並ぶプロヴディフのローマ時代の重要な遺跡である。円形競技場は、サハト・テペとトリフルミエ地区のあいだに位置している。競技場は2世紀に建造されたもので、デルポイの競技場に倣ったものである。ローマ時代には、3万近くの闘技が行われたとみられる[3]。その北東の一部分、13列の客席が今日もみられるが、その他の大部分はプロヴディフのメインストリートや周囲の建物の地下に眠っている。

ローマ時代のフォルムは紀元後1世紀のウェスパシアヌスの時代に建造が始まり、2世紀に完成された。フォルムは、オデオンや現在の郵便局の近くに残されている。11ヘクタールの広さをもち、周囲を店や建物に取り囲まれ、街路が集まる古代都市の中心部であった[3]

エイレーネー古代遺跡群(Eirene Archaeological complex)は、トリフルミエ地区の南側から、こんにちのアルヘオロギチェスキ地下道のある古代の街路跡の北にかけての一帯を占める古代遺跡群である。ここには、3世紀から4世紀の富裕層が所有した建造物跡が残されている[55]

ネベト・テペには、トリフルミエ(3つの丘)地区で最古の人の居住地である、紀元前12世紀のトラキア人の都市・エウモルピアスが残されている。これはバルカン半島全土でも極めて古い人の居住跡の一つである。神殿の周囲を取り囲む巨大な壁と、宮殿が発掘されている。この要塞で最も古い部分は大きな閃長岩のブロックで建造されており、「キュクロープスの建築」と呼ばれている。

博物館と保存地区

考古学博物館は1882年に東ルメリ人民博物館として創設された[56]。博物館は、1928年にセアディネニエ広場に面する建物に移転した。この建物は19世紀にプロヴディフの建築家ヨーゼフ・シュニッター(Josef Schnitter)が手がけたものである。博物館には数多くのトラキア人の遺品が収蔵されている。「有史以前」[57]、「古典古代」[58]、「中世」[59]の3部に分けられ、旧石器時代から初期オスマン時代(15世紀-16世紀ごろ)までの遺品が納められている[60]。パナギュリシテの宝物(Panagyurishte treasure)として知られるトラキア人の宝物もこの博物館に納められている[61]

プロヴディフ地域民族誌学博物館

プロヴディフ地域歴史博物館(Plovdiv Regional Historical Museum[62]は1951年に設けられた博物館である。博物館は、プロヴディフおよびその周辺地域の16世紀から20世紀までの歴史的遺品に関する科学的・文化的な収集、保存、研究の機関として設立された。3つの建物で展示が行われている[60]。プロヴディフ地域民族誌学博物館(en:Plovdiv Regional Ethnographic Museum)は1917年に市立邸宅博物館として創設され、1943年10月14日に旧市街の家屋に移転した。1949年に市立邸宅博物館は人民民族誌学博物館に改組され、1962年に改築された。博物館には4万点を超える収蔵品が納められている[60]

自然科学博物館は1955年に、1880年建造の旧市役所の建物に開設された。同博物館は、古生物学鉱物学植物学の分野の収蔵品を豊富に集め、これらの分野においてブルガリアで最も重要な博物館のひとつに数えられる。博物館には、野生生物に関する展示や、40種の魚が住むブルガリア最大の淡水水槽などがある[60]ロドピ山脈鉱物のコレクションもある。

航空博物館は1991年9月21日に、街の中心から12キロメートル北東に位置するクルモヴォ航空基地の敷地内に開設された[63]。博物館には59機の航空機と、屋内外の展示がある[60]

プロヴディフ旧市街には、ブルガリア民族復興期の建築物が立ち並び、地区は歴史的保存地区に指定されている。旧市街はトリフルミエ(「3つの丘」の意味、ネベト・テペ、ジャンバス・テペおよびタクシム・テペ)地区にある。旧市街にあるほぼ全ての家屋が、民族復興期に特徴的な内装・外装を備えている。

キリスト教聖堂とモスク

プロヴディフには、19世紀に建てられた、数多くの正教会の聖堂が建っている。聖コンスタンティン・聖エレナ聖堂(Church of St Constantine and Helena)、聖マリナ聖堂、聖ネデリャ聖堂、聖ペトカ聖堂、生神女聖堂(Church of the Holy Mother of God)はいずれもこうした正教会の聖堂である。カトリック教会の聖堂である聖ルイ大聖堂もある。この他に、現代的なバプテスト教会メソジスト教会長老派教会やその他のプロテスタント諸派の教会堂や、古い様式のアルメニア教会の聖堂もある。オスマン帝国時代に建てられたモスクが2つ残されており、うちジュマヤ・モスクは、ムーア人の支配を受けたスペイン以外ではヨーロッパ最古のイスラム教のモスクである。ユダヤ教シナゴーグもある。

文化

演劇と音楽

旧市街の家屋
オデオン(ローマ劇場)でのイベント

プロヴディフ劇場[64]は、その起源を1881年に創設されたブルガリア初のプロの劇団に求めることができる。プロヴディフ人形劇場は1948年に創設されたもので、ブルガリアにおけるこの分野の先駆けとなった機関である。プロヴディフ・オペラは1953年に創設された。

この他のプロヴディフの文化を代表する存在として、プロヴディフ・フィルハーモニーがあり、これは1945年に設立されたものである[65]ドミートリイ・ショスタコーヴィチスヴャトスラフ・リヒテルムスティスラフ・ロストロポーヴィチ、ユーリイ・ブコフ、ミンチョ・ミンチェフなどのソロイストが、プロヴディフ・フィルハーモニーと共に仕事をした。楽団はヨーロッパのほぼ全ての国を訪れている。トラキヤ民俗合奏団は1974年に設立され、ブルガリア国内で数多くのコンサートをこなしたほか、42箇国での仕事を経験してきている[66]。トラキア伝統音楽合唱団はグラミー賞にノミネートされたことがある。デツカ・キトカ合唱団(Detska Kitka Choir)は、古くから続く著名な少年合唱団であり、数多くの国際的な合唱大会での受賞歴を持つ。

文学

プロヴディフは、ブルガリアで第一級の文学の拠点となっている。1855年にフリスト・G・ダノフ(Hristo G. Danov)がブルガリアで初の出版社、そして印刷会社をこの地で興した[67]。文学拠点としてのプロヴディフの歴史は、国内で初の公共図書館であるイヴァン・ヴァゾフ国立図書館(Ivan Vazov National Library)や、市内に19あるチタリシテ(chitalishta、公民館施設)、数多くの書店や出版社の存在に見て取れる。図書館は1879年に設けられ[68]、著名なブルガリア人の作家・詩人であるイヴァン・ヴァゾフIvan Vazov)の名をとって命名された。ヴァゾフはここで5年間を過ごし、彼の代表的な作品を著した[69]。イヴァン・ヴァゾフ国立図書館は、こんにちのブルガリアにおいて2番目に大きな国立の図書館であり、150万を超える書籍を収蔵し[70]、ブルガリアやその他のヨーロッパ諸国の貴重な書物を保有している。

芸術

プロヴディフ・アート・ギャラリー

プロヴディフは中世以来の図像学の伝統を有している。民族復興期には、数多くのイコン画家(ゾグラフィ、зографи / zografi)がこの地に集まり、活動した。ディミタル・ゾグラフ(Dimitar Zograf)とその息子ザフィル・ゾグラフ(Zafir Zograf)、ザハリ・ゾグラフ(Zahari Zograf)、ゲオルギ・ダンチョフ(Georgi Danchov)らがこの地で活動を行った[35]。ブルガリア解放後は、チェコ人の生まれであるブルガリアの画家・イヴァン・ムルクヴィチュカ(Ivan Mrkvička)がこの地に移住して活動した。1912年にはブルガリア南部出身の画家たちによって画家協会が設立され、ズラテュ・ボヤジエフ(Zlatyu Boyadzhiev)、シラク・スキトニク(Sirak Skitnik)、ツァンコ・ラヴレノフ(Tsanko Lavrenov)らが協会に所属した。

こんにち、市内には30の画廊がある。プロヴディフ・アート・ギャラリーは19世紀に設立されたものである[71]。同ギャラリーは4つの建物に合わせて5千を超える芸術作品を保有している。1981年には、ブルガリア建国1300年を祝してメキシコの画家たちから作品が寄贈され、これを収蔵するセクションが新たに設けられた。










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