ジェームス・カーティス・ヘボン ジェームス・カーティス・ヘボンの概要

ジェームス・カーティス・ヘボン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/06 04:36 UTC 版)

ジェームス・カーティス・ヘボン
James Curtis Hepburn
個人情報
出生 (1815-03-13) 1815年3月13日
アメリカ合衆国ペンシルベニア州ミルトン
死去 (1911-09-21) 1911年9月21日(96歳没)
アメリカ合衆国ニュージャージー州イーストオレンジ
墓所 ローズデール墓地
国籍 アメリカ合衆国
両親 父:サムエル・ヘップバーン
母:アンニ・クレイ
配偶者 クララ・メアリー・リート
子供 次男:サムエル・ヘップバーン
職業 宣教師医師
出身校 プリンストン大学ペンシルベニア大学
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ヘボンの胸像(明治学院大学)

幕末に訪日し、横浜で医療活動に従事。牧師として聖書の日本語訳に携わった。

初の和英辞典和英語林集成』を編纂し、それによりヘボン式ローマ字を広めた人物としても知られ、英学の進展に大きく寄与した。東京明治学院(現在の明治学院高等学校明治学院大学)を創設して初代総理に就任するなど、高等教育にも貢献した。

姓の「ヘボン」は原語の発音を重視した仮名表記とされており、本人が日本における名義として用いたことで彼固有の表記として定着したものだが、Hepburn 全般の音訳としては「ヘプバーン」「ヘップバーン」が普及したことから、彼の姓もそれに従って表記される場合がある。

生涯

前半生

1815年、アメリカ合衆国ペンシルベニア州ミルトンに、サムエル・ヘップバーンの長男として生まれる。ヘボンの家系は、遠くはスコットランドのボスウェル伯に連なるといい、1773年に曽祖父のサムエル・ヘップバーン(ヘボンの父と同名)がイギリス国教による長老派迫害を逃れてアメリカへ渡った。サムエルの後は、子ジェームス、孫サムエルと続く[1]

1832年プリンストン大学を卒業し、ペンシルベニア大学医科に入学。1836年にペンシルベニア大学を卒業し、医学博士(M.D.)の学位を取得した。

1840年、クララ・メアリー・リート(Clara Mary Leete,1818-1906)と結婚。

1841年3月15日ボストンを出航。7月にシンガポールに到着。

1843年マカオを経由して廈門に到着。

1845年11月13日、廈門を出発。1846年ニューヨークに到着して病院を開業した。

日本での活動

ヘボンが最初に滞在した横浜の成仏寺
施療所を開いた宗興寺
(中央に記念碑がある)

1859年安政6年)4月24日北アメリカ長老教会の宣教医として、同じ志を持つ妻クララと共にニューヨークを出発。香港上海長崎を経由し、1859年10月17日安政6年9月22日)に横浜に到着した[注釈 1]神奈川宿(現・横浜市神奈川区)の成仏寺本堂に住まいを定め[2]、川向こうの宗興寺に神奈川施療所を設けて医療活動を開始。ここから横浜近代医学の歴史が始まったといわれる。

1860年(万延元年)、フランシス・ホールデュアン・シモンズ博士夫妻らと神奈川宿近くの東海道で大名行列を見物。尾張徳川家の行列の先触れにひざまずくよう命じられたがヘボンとホールは従わず、立ったまま行列を凝視したため、尾張藩主(年代的には徳川茂徳)もヘボンらの前で駕籠を止めオペラグラスでヘボンらを観察するなど張り詰めた空気が流れたが、数分後尾張侯の行列は何事もなく出発し、事なきを得た[3]

1862年9月14日(文久2年8月21日)に発生した生麦事件では、負傷者の治療にあたった。

1863年(文久3年)、横浜居留地に男女共学のヘボン塾を開設。また、この年には箕作秋坪の紹介で眼病を患った岸田吟香を治療した。この縁で、当時手がけていた『和英語林集成[4]を岸田吟香が手伝うようになる。1866年、『和英語林集成』の印刷のため、岸田吟香と共に上海へ渡航した。

1867年慶応3年)、三代目沢村田之助の左足切断手術を行う。この年に、日本初の和英辞典である『和英語林集成』を出版。

1872年(明治5年)、横浜の自宅で第一回在日宣教師会議を開催、同僚の宣教師らと福音書の翻訳を開始。

1874年(明治7年)9月、横浜に横浜第一長老公会(現在の横浜指路教会)をヘンリー・ルーミスを牧師として建てる。

1880年(明治13年)頃、新約聖書の和訳を完成。

1886年(明治19年)、『和英語林集成』第3版を出版。

1887年(明治20年)、明治学院(現・明治学院高等学校・同大学)を設立、明治学院初代総理[5]に就任した。

1892年(明治25年)、『聖書辞典』を山本秀煌と編纂。10月22日、妻の病気を理由に離日。

晩年

1890年横浜で撮影されたヘボン夫妻の金婚式の記念写真

1893年(明治26年)、ニュージャージー州イーストオレンジに居を構える。

1905年(明治38年)3月13日、日本文化の進歩への功績が認められ、勲三等旭日章が贈られた。

1911年(明治44年)、病没。

名前の表記について

ヘボンとその家族の集合写真
横浜居留地のヘボンの家
1880年代半ばの、アメリカ合衆国長老教会東京ミッションのメンバーの家族の集合写真

「ヘボン」という姓

Hepburn という姓は、HebronまたはHebburnという町に由来する。この姓は「ヘプバーン」「ヘップバーン」とも転記される(女優のキャサリン・ヘプバーン[注釈 2]オードリー・ヘプバーンも、同じ Hepburn 姓である)が、本項の James Curtis Hepburn は日本の信徒向けに自ら「ヘボン」と称した(他に「平文」の表記を使用していた)。望月洋子『ヘボンの生涯と日本語』[6]によれば、彼はテノールのよく響く声で、自ら「ヘボンでござります」と名乗っていた、という記述がある[注釈 3]。こうしたことから、James Curtis Hepburnが創設したり、創立に深く関わった学校や教会は現在でも「ヘボン」表記を大事に伝えている。

名の表記

一方、"James Curtis" の発音・表記は、変遷し、混乱してきたと思われる[誰?]Jamesについてはジェームズを、Curtisについてはカーチスを参照のこと。




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固有名詞の分類

辞典編纂者 エリアス・リョンロート  坂間勇  ジェームス・カーティス・ヘボン  宮本正男  南條範夫
アメリカ合衆国の言語学者 ウィリアム・ストーキー  メレディス・ガードナー  ジェームス・カーティス・ヘボン  マーク・ベイカー  ジョン・グリンダー
明治時代の人物 折田平内  佐野常民  ジェームス・カーティス・ヘボン  前原一誠  中原助之
幕末の外国人 シセロ・プライス  ユージン・ヴァン・リード  ジェームス・カーティス・ヘボン  シャルル・ド・モンブラン  ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクール
在日宣教師 ケート・ヤングマン  卞在昌  ジェームス・カーティス・ヘボン  ダニエル・クロスビー・グリーン  ピエール・ムニクウ
アメリカ合衆国の宣教師 ケート・ヤングマン  ドナルド・マクギャヴラン  ジェームス・カーティス・ヘボン  ダニエル・クロスビー・グリーン  ピーター・ワグナー

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