ケープタウン 概要

ケープタウン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/30 07:07 UTC 版)

概要

テーブル湾に面する同市はそのが有名であるとともに、世界的に有名なテーブルマウンテン喜望峰などを含んだケープ草原(en:Cape floral kingdom)のなかにある。

ケープタウンはもともと東アフリカインド東アジア貿易に携わるオランダ船の食料基地として建設されており、それはスエズ運河1869年に建設される200年以上も前のことであった。ヤン・ファン・リーベック1652年4月6日に到着して南アフリカで初めてのヨーロッパ植民地を設立するのであるが、ケープタウンは急速に成長してヨーロッパ初の前哨基地(キャッスル・オブ・グッドホープ)という元々の目的を超えてしまった。ヨハネスブルグダーバンが成長するまでは南アフリカ最大の都市であったのである。また南アフリカに初めて白人が入植した土地であり、のちの内陸部へのすべての開拓の起点ともなった。そのため、南アフリカの白人からは「マザー・シティー」(母なる都市)との愛称で呼ばれる。

2001年の南アフリカの国勢調査によれば、ケープタウン大都市圏は295万人の人口を持ち、[1] 面積は2499平方キロメートルで南アフリカの他の都市よりも大きい。この結果、人口密度は比較的低くなり1平方キロメートルあたり1158人である。ケープタウンはフランスニースイスラエルハイファ姉妹都市となっている。ケープタウン市内人口は2011年国勢調査によると、433,688人となっている。周辺地域と合わせた大都市圏人口は3,740,026人。

歴史

創設

ヴァスコ・ダ・ガマ1498年に喜望峰回りの欧印航路を開発して以降、この地方は欧州東洋とを結ぶ主要航路となっていたが、喜望峰沖は航海上の難所であるにもかかわらず、ポルトガル領のルアンダソファラ間には補給港がなく、交通の障壁となっていた。このため、オランダ東インド会社がこの地域への補給港建設を計画し、同社に所属していたヤン・ファン・リーベック1652年にテーブル湾南岸の、現在のケープタウン中心部に入植し、ケープタウン市を建設した。

ケープタウン周辺では熱帯原産のバントゥー系の主食作物は生育できなかったため、この地方に居住していたのは牧畜民であるコイコイ人だった。彼らは食料生産力が低いため人口が少なく戦闘力も低かったため、入植者たちにすぐに追われ、ケープタウンは安全に成長することができるようになった。この地への入植を決定した東インド会社首脳部は、この地に補給港以上のものをつくろうとは考えておらず、利益を考慮しない代わりに損害も少なくするため、できる限り放任する姿勢をとった。入植者たちの一部は自由農民となり、ケープタウン及びその周辺で農耕や牧畜を開始した。入植者は会社によって1707年までは無料で輸送され、次々とこの地に入植していった。入植者たちにはオランダ人のほか、ナントの勅令の廃止によってフランスを追われたユグノーたちもおり、彼らはケープタウン近郊に入植してワイン作りを始めた。1679年には第10代ケープ植民地総督シモン・ファン・デル・ステルが内陸部のステレンボッシュに居留地を作り、以後ケープ植民地はケープタウン市のみの植民地から面的な広がりを持つようになった。

18世紀には、ケープタウンは補給基地の枠を超えて成長を続けるようになった。ケープタウンの港には欧印航路の商船が立ちよるようになり、彼らを相手とする商人層が成長し、一部のものは富を蓄え富裕層となっていった。農民は独立自営農民として各地に巨大な農園を構え、奴隷を使用しながら大規模農業を営むようになった。この2者と商船を顧客とする職人層も出現した。農民層の一部はケープタウン市から遠くはなれた内陸部で牧畜を営むようになり、トレックボーアと呼ばれるようになったが、彼らの生産品はケープタウンで売られ、必需品もケープタウン商人が供給しており、ケープタウン経済から独立した存在ではなかった。18世紀末にはケープタウンの世帯数は1100戸に達していた。1778年には富を蓄えた都市商人と農民層がオランダ本国に代表団を送って政治的代表権と貿易の自由を要求したが、黙殺された。[2]

英領ケープ植民地

1795年フランス革命の余波を受けイギリス艦隊がケープタウンに上陸し、ケープはイギリスの占領下に置かれた。1803年にはアミアンの和約によってオランダ連邦共和国の後継国家であるバタヴィア共和国がケープ植民地の支配権を取り戻したが、1806年1月には再びイギリス軍がケープを占領し、1815年ウィーン議定書によってケープタウンは正式にイギリス領となった。

イギリス領となっても、ケープ植民地の首都及び中心がケープタウンにおかれたことに変わりはなかった。 1820年にはイギリス人の移民が始まったものの、ケープタウンにおいてもケープ植民地全体においても、イギリス系はオランダ系ボーア人の人口を越えることはなかった。1833年の奴隷解放によって東ケープのトレックボーアたちは不満を募らせ、やがてグレート・トレックを引き起こすが、ケープタウンはすでに商工業を中心とした社会となっており、グレート・トレックへの参加者はほとんどいなかった。

グレート・トレックによって内陸部にオレンジ自由国及びトランスヴァール共和国が成立すると、イギリス本国はケープ植民地の政治的自立性をある程度認める政策をとるようになり、1854年にはケープタウンにケープ植民地議会が開設された。この議会は制限選挙制であったが人種制限はなく、これによって一部の黒人及びカラードは1956年まで選挙権を保持することに成功した。植民地政府は同時に経済開発を進め、ケープタウンに電信郵便が整備され、ステレンボッシュやケープ半島南部への鉄道も開通した。1865年には、ケープタウンの人口は28000人に達していた。

1886年、トランスヴァールのヨハネスブルグでが発見されると、ケープタウンは当初は鉄道によってヨハネスブルグからの金の輸出を独占していたものの、やがてヨハネスブルグにはナタール州のダーバンからの鉄道が到達し、さらにトランスヴァール政府がポルトガル領ロレンソ・マルケス(現マプト)へのデラゴア湾鉄道を建設したことから輸送ルートが変化した。この輸送ルート問題は、やがてボーア戦争の引き金の一つとなった。

南アフリカ時代

1902年にボーア戦争が終結したのち、イギリス領となった4植民地に大同団結の動きが起き、やがて1910年にはイギリスの自治領である南アフリカ連邦が成立すると、ケープタウンには南アフリカ連邦の議会が設置された。しかし諸州の兼ね合いにより、行政首都は旧トランスヴァールの首都であるプレトリアに、司法首都は旧オレンジ自由国の首都であるブルームフォンテーンに置かれることとなった。これは、ケープタウンの地位を相対的に低下させる一因となった。金鉱発見以後も沸き立つ経済によって、ヨハネスブルグの経済はケープタウンをしのぐようになり、プレトリア・ウィットウォータースランド(ヨハネスブルグ)・フェリーニヒング経済圏(現ハウテン州)はケープタウン経済圏を抜いて南アフリカの経済の中心となった。しかし、ケープタウンの重要性は保持された。

ケープタウン港が良港であるため、古くから船舶、艦船の補給、休養ポイントになっていたが、1960年代に入り遠洋漁業が盛んになると各国の漁船も加わり知名度と国際色が高まった。一方で、1969年には日本人船員と中国人船員ら80人以上が繁華街で乱闘になり、4人以上が死亡、多数が負傷する事件も発生している[3]

アパルトヘイト廃止運動の中心人物であり、1994年黒人初の南アフリカ共和国大統領になったネルソン・マンデラは、ケープタウン沖合いにあるロベン島刑務所1964年から1990年までの27年間収監されていた。釈放後、最初の記念演説はケープタウン市役所のバルコニーにておこなわれ、10万人の聴衆を集めた。[4]

地理

テーブルマウンテン

ケープタウンの中心はケープ半島の北の端に位置し、テーブル湾に面した地区である。この地区は北をテーブル湾、西をシグナル・ヒルとライオンズ・ヘッド、南をテーブルマウンテン、東をデビルスピークといった山々に囲まれほぼ円形をしており、その形からシティ・ボウルと呼ばれている。目抜き通りはシティ・ボウルを南北に貫くアダレー・ストリートであり、ケープタウン駅や南アフリカ国会議事堂、南アフリカ博物館やカンパニー・ガーデンズといった観光名所も多くある。ケープタウン駅の南には、ケープタウンの基点となったキャッスル・オブ・グッドホープがそびえる。中心部の北側にある旧港地区は近年再開発がおこなわれ、ビクトリア&アルフレッド・ウォーター・フロントとして観光の目玉となっている。その北はグリーン・ポイントと呼ばれ、ケープタウン・スタジアムやゴルフ場などがあるスポーツ・レクリエーション中心のエリアである。

ケープタウンよりシグナル・ヒルをはさんで西に位置し、大西洋に面するシーポイント地区を中心とする北西部一帯は白人が多く、高級住宅街となっている。

市街地の背後に見事にそそり立つテーブルマウンテンは1000メートル以上の高さを持ち、ほぼ垂直の崖で取り囲まれている。この山にときおり薄い雲がかかったりすると、その外観から「テーブルクロス」などと呼ばれることもある。ケープの気候は変わりやすいため、テーブルクロスのかかっていないテーブルマウンテンはめずらしいほどである。この半島を背骨として貫く山脈が大西洋の中を南に張り出し喜望峰となっている。ケープタウンの中にある300mを越える頂(いただき)は70以上。ケープタウンの多くの郊外住宅地区は半島と本土を結ぶケープ・フラッツにある。ケープ・フラッツは海底が隆起して出来た陸地であり、大方は砂っぽい地質である。テーブルマウンテンはかつては島だったことになる。ケープ・フラッツはアパルトヘイト時代に市中心部の第6地区(ディストリクト・シックス)から強制移住させられたカラードたちの居住区であり、現在でも低所得者層の居住地となっている。近年では東から流入してきたコーサ人が優勢な地区となっている。


  1. ^ Municipal Demarcation Board”. 2008年5月18日閲覧。
  2. ^ レナード・トンプソン著、宮本 正興・峯 陽一・吉国 恒雄訳、1995、『南アフリカの歴史』p92-104 明石書店 ISBN 4750306991
  3. ^ 「中国人船員と乱闘 日本人船員ら四人が死ぬ」『朝日新聞』昭和44年(1969年)9月18日朝刊、12版、15面
  4. ^ 峯陽一編著、2010年4月25日初版第1刷、『南アフリカを知るための60章』p241 明石書店
  5. ^ Cape Town Climate Data”. South African Weather Service. 2008年5月18日閲覧。[リンク切れ]
  6. ^ World Weather Information Service - Cape Town”. World Meteorological Organization. 2013年4月8日閲覧。
  7. ^ Cape Town/DF Malan Climate Normals 1961–1990”. National Oceanic and Atmospheric Administration. 2013年4月8日閲覧。
  8. ^ Climate data: Cape Town”. Old.weathersa.co.za (2003年10月28日). 2011年3月17日閲覧。
  9. ^ Seat Calculation Detail: City of Cape Town”. Independent Electoral Commission (2011年5月21日). 2011年5月23日閲覧。
  10. ^ Statistics South Africa: 2001 Census Results”. 2006年5月2日閲覧。[リンク切れ]
  11. ^ Cape Town International Airport (CPT)”. CAPE TOWN AIRPORT. 2020年9月25日閲覧。
  12. ^ Cape Town International Airport (PDF)”. Cape Town Routes Unlimited. 2007年1月19日閲覧。
  13. ^ Official Western Cape and Cape Town tourism guide”. 2008年5月18日閲覧。
  14. ^ Table Mountain Aerial Cableway”. 2008年5月18日閲覧。
  15. ^ Cape Point, South Africa”. 2008年5月18日閲覧。
  16. ^ Kirstenbosch National Botanical Garden”. 2020年9月25日閲覧。
  17. ^ Cape Town Beaches”. SafariNow.com. 2008年5月18日閲覧。
  18. ^ The African Penguin”. 2008年5月18日閲覧。
  19. ^ The Victoria & Alfred Waterfront”. 2008年5月18日閲覧。
  20. ^ The Two Oceans Aquarium”. 2008年5月18日閲覧。
  21. ^ Robben Island”. 2008年5月18日閲覧。
  22. ^ Township stays”. 2008年5月18日閲覧。[リンク切れ]
  23. ^ Cape Dutch Architecture”. Encounter South Africa. 2008年5月18日閲覧。
  24. ^ A Comparative Evaluation of Urbanism in Cape Town. University of Cape Town Press. (1977). pp. 20–98. ISBN 0-620-02535-2 
  25. ^ Time Out: Cape Town. Time Out Publishing. (2006). pp. 127–130: Sports. ISBN 1-904978-12-6 
  26. ^ South Africa Announces Bid For 2020 Summer Olympic Games, Gamesbids.com
  27. ^ Villes jumelées avec la Ville de Nice” (French). Ville de Nice. 2010年3月5日閲覧。
  28. ^ Cape Town”. Haifa City. 2010年3月5日閲覧。
  29. ^ Agenda 21 Partnership Cape Town – Aachen”. 2010年3月5日閲覧。
  30. ^ Saint Petersburg in figures – International and Interregional Ties”. Saint Petersburg City Government. 2008年3月23日閲覧。
  31. ^ Agreement on the Establishment of Relations of Friendship between the City of Hangzhou of the People's Republic of China and the City of Cape Town of the Republic of South Africa” (2005年4月18日). 2010年3月5日閲覧。






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