エスファハーン 語源

エスファハーン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/13 11:05 UTC 版)

語源

古代ペルシア語の"Aspad-hana"(アスパダナ、大軍の集結地)が、町の名前の由来である[9]。「大軍の集結地」が示す通り、町の周辺の平原は軍隊の駐屯地や捕虜の収容所として使われていた[10]。古代ペルシア語の"Asp"(馬)から派生した「馬を愛する者」「騎兵の補給基地」「厩舎」を語源とする説も存在する[11]

古代ローマプトレマイオスの『地理書』には、町はアスパダナ(Aspadana)の名前で記されている[1]サーサーン朝の末期に鋳造された貨幣には、アスパダナを意味する"ASP"の3文字が刻まれていた[10]

エスファハーンの名前は、7世紀に町を征服したアラブ人によって定着した[9]

歴史

イスラーム以前

エスファハーンの歴史は紀元前のアケメネス朝期に遡ることができる[3]。一説には、紀元前6世紀のユダヤ人居住区が町の起源と言われる[12][13]

サーサーン朝の時代にはエスファハーンは軍隊の駐屯地とされており、町は「軍隊」の複数形であるセパーハーン(Sepāhān)の名前で呼ばれていた[1]。サーサーン朝の王ヤズデギルド1世の治世に、ユダヤ人が町に移住させられる[8]

手工芸品の産地である町は、パルティア王国とサーサーン朝の時代に交易で発展した[10]

7世紀イスラム帝国の征服前に、すでに町の原型が形作られていた[14]ザーヤンデルード川の北を中心に町が形成され、東のジャイ、西のヤフーディーヤの2つの集落が形成された。ジャイは城壁に囲まれた軍事都市、ヤフーディーヤはユダヤ人居住区と異なる役割を有する双子都市であり、ゾロアスター教徒、ユダヤ人、ネストリウス派キリスト教徒が混住していた[15]。やがてジャイは廃れ、ヤフーディーヤが発展していく[1]

642年のニハーヴァンドの戦いの前後に町はアラブ人の支配下に入った[1]。サーサーン朝の時代に町に住んでいたゾロアスター教徒の多くはイスラームに改宗、あるいは東方に移住した[16]。しかし、イスラム教徒の支配下でも、残ったゾロアスター教徒、ユダヤ人、キリスト教徒は町の一角に居住していた[16]

第一の隆盛期

金曜モスク

773年ごろに金曜モスク(ジャーメ・モスク)の基となった大モスクが建立され、町は大モスクとコフネ広場(旧広場)を中心に発展していく[17]

10世紀までにウマイヤ朝アッバース朝サッファール朝サーマーン朝がエスファハーンを支配した。931年ブワイフ朝の支配下に入り[3]939年にブワイフ朝の首都に定められた[16]。アラーウッダウラのもとで市壁が築かれ、おおよそ市壁に沿って町が発展した[14]。貿易路の交差点に位置する立地のため、多くの街道がエスファハーンと結ばれる[18]

11世紀にエスファハーンはガズナ朝、次いでセルジューク朝に領有される[3]。セルジューク朝のスルターンマリク・シャーは、エスファハーンを国の都に定めた。金曜モスクと隣接するコフネ広場を中心として、エスファハーンは最初の隆盛期を迎える[14]

金曜モスクは修復され、南北の大ドームと、中庭に面した4つのホール(イーワーン)が増築される[19]。また、モスクの近くにニザーミーヤ学院が建設された。セルジューク朝支配下のエスファハーンでは200人の両替商が営業を行い、50のキャラバンサライ(隊商宿)が建っていた[16]

セルジューク朝が分裂した後のエスファハーンは首都としての機能を失うが、地方の中心都市としての地位を保っていた[14]。多くの国がエスファハーンの領有を巡って争ったためにたびたび破壊に晒されたが、交通、商業、文化、農業の一拠点としての重要性は維持していた[12]

停滞期

11世紀末から12世紀初頭にかけての間、イスマーイール派がエスファハーンを占領した[10]1165年、エスファハーンでハナフィー学派シャーフィイー学派による8日間に及ぶ武力衝突が起こり、家屋や商店は破壊され、多くの死者を出した[20]

1194年イラク・セルジューク朝最後の君主トゥグリル3世ホラズム・シャー朝アラーウッディーン・テキシュに敗れるとホラズム・シャー朝の支配に下った。モンゴル帝国軍に敗れてインドへ逃亡したジャラールッディーン・メングベルディーがイランに帰還した時、兄弟たちやモンゴル軍との戦闘などのためエスファハーンを拠点として各地へ転戦している[21]

1240年にイラン北部に侵攻していたモンゴル軍に征服され[22]イルハン朝の支配下に入った。14世紀に、エスファハーンは学術と商業の拠点として復興する[19]。14世紀に旅行家イブン・バットゥータがエスファハーンを訪れたとき、町ではスンナ派シーア派の争いが起きていた[23]

14世紀半ばのイルハン朝崩壊後の混乱時代に、ヤズドを根拠地とする地方政権ムザッファル朝の傘下に入る[22][24]1387年にはティムールの、1414年にはシャー・ルフによって2度のティムール朝軍の破壊を受けている。1387年にエスファハーンの住民が町を占領したティムール軍に反抗したため、70,000人に達する市民が虐殺されたen:Siege of Isfahan (1387)という[25]

第二の隆盛期

サファヴィー朝の王アッバース1世
19世紀にPascal Costeによって描かれた王の広場
エスファハーンのバーザール

16世紀初頭に建国されたサファヴィー朝の創始者イスマーイール1世は、コフネ広場の南にハール・ネヴェラーヤトと呼ばれるスーフィーの聖者の霊廟と アリー・モスクを建立した。16世紀を通して王朝が派遣した地方官や土着の有力者によって、多くの建設事業が行われた[12]1597年アッバース1世によって、サファヴィー朝の首都がガズヴィーンからエスファハーンへ遷都された[26]

アッバース1世は町の南西の馬場と青空市に使われる広場を新市街の中心地に選定し、王の広場(後世のイマーム広場)を建設した[27]。王宮地域の西側には、ザーヤンデルードの南岸と北岸を結ぶチャハール・バーグ大通り[注 3]が建造され、通りの始点と終点、側面に庭園が造られた[28]

王の広場やチャハール・バーグ大通りを中心とする計画都市としての大規模な市街改造が進められる[29]。王の広場の一角に建立されたシャイフ・ルトゥフッラー・モスク英語版、王のモスク(イマーム・モスク)、アリ・カプ宮殿などの施設が、新市街に建設された。17世紀のはじめに西方の世界で飲まれていたコーヒーがイランに伝播すると、建設中の王の広場にコーヒーハウスが建設された[30]

王の広場は外国の使節との謁見、閲兵、青空市、公開処刑など多種のイベントが行われる場所であり[31]、使節との謁見やノウルーズ(新年祭)の時にはポロや花火も催された[16]。広場はレスリング、古式体操の競技場としても使用された。さらに、イベントの観客を目当てにする大道芸人や娼婦の客引きが広場に集まった[31]

新市街と旧市街はバーザール(商業地区)で結ばれ、都市の商業が活発化する[31]。夏の酷暑と風雨を防ぐため[32]、バーザールにはドーム状のアーケードが設置された。バーザールの道沿いに建てられていたキャラバンサライでは、小売りの商人が卸売りから品物を仕入れていた[33]

旧市街にはバーザールで働く商人や職人の多くが居住し、コフネ広場と周辺には商店が軒を連ねていた[34]。また、コフネ広場の周辺には、コクナールという一種の麻薬を売る店や、少年の男娼や娼婦をあてがう置屋が並ぶ界隈が存在していた[35]

1604年[22]アッバース1世によって当時国際交易で活躍していたアルメニア人がエスファハーン郊外に移住させられ、1654年[22]に彼らは町の南西のジョルファー(Julfā)と呼ばれる地区に居住した[36]。「ジョルファー」の語源はアゼルバイジャンアラス河畔にある町の名前であり[36]、絹交易で利益を得ていた[37]。オスマン帝国の食糧補給の妨害のため、ジョルファーの収益がオスマン帝国の手に渡ることを阻止するため、アッバース1世はアルメニアの住民をイランに強制的に移住させたと考えられている[37]。アルメニア人には数々の特権が付与され、王室が独占する絹交易に従事することを許された[36][38]。ジョルファーには、アルメニア人の寄付によって建立されたヴァーンク教会などの、いくつかのキリスト教徒の教会が存在する。また、ジョルファーの西のゲブラーバードには、ゾロアスター教徒の居住区が形成されていた[39]

17世紀には、スーフィズム(神秘主義)の影響を強く受けた思想家がエスファハーン学派を形成し、哲学論を巡らせていた[40]

17世紀末にはエスファハーンの人口は500,000人を超え[31][41]、トルコ人、アラブ人、インド人、アルメニア人、ユダヤ人、ゾロアスター教徒が混在する他文化都市となっていた[36]。そして町には1802のキャラバンサライ、162のモスク、48のマドラサ(学校)、273のギャルマーベ(公衆浴場)が建ち並んでいた[36]。町の繁栄の様子は17世紀末のエスファハーンを訪れたフランスの商人ジャン・シャルダンによって記録され、1711年にヨーロッパで出版された[42]

18世紀に入るとサファヴィー朝は衰退し、1722年アフガン人によってエスファハーンは破壊される[13]。サファヴィー朝が滅亡して新市街から宮廷が消えると新市街は急速に衰退し[31]、荒廃した新市街の大部分は耕作地にされた[14][43]

1756年から1757年にかけて町を襲った飢饉によって約40,000人の市民が餓死、1759年より知事のムハンマド・リナーニーのもとで復興事業が始められる[22]

近代以降

1942年に作成されたエスファハーンの地図。

19世紀に入って、エスファハーンの復興が始まる[13]ガージャール朝が建国された後、遊牧民族のバフティヤーリー族Bakhtiari people)がエスファハーンの支配権を握った[44]。しかし、首都機能はテヘラン、商業機能はタブリーズに移り、町は一地方都市に転落した[31]

20世紀パフラヴィー朝レザー・シャーによって都市の近代化が進められ、町は近代産業と観光産業によって復興する[31]第二次世界大戦後、エスファハーンで実施された自動車交通計画によって市街地に自動車道が敷かれたことが、町の転換点となる[45]。電気や水道などのインフラストラクチャーが整備され、伝統的な都市に国際的な価値観が持ち込まれた[46]。減少した人口は、20世紀後半から急速に増加した[7]

1977年4月6日、エスファハーン近郊を震源とする地震が発生。死者500人を超す被害となった[47]

1979年に新市街の王のモスクと王の広場の周辺が世界遺産に登録され、イラン革命を経た後も観光都市として発展を続ける[46]

地理

ハージュ橋とザーヤンデルード

エスファハーンは海抜1,500m超の高地に存在する[48][49]。イランの都市の中では、標準的な高度に位置する[8]

ザーヤンデルード川の北に位置し、対岸にはアルメニア人の集落が存在する。町は周辺を荒野に囲まれているが、ザーヤンデルードの沿岸部は灌漑によって開拓されている[49]。ザーヤンデルードの豊富な水量に支えられた周辺地域の農業生産力と、イラン高原北部とイラクペルシア湾岸の港湾都市地域を結ぶ交通の要衝として古代から発展した[1][14]。これらの人工水路網はMadiフランス語版と呼ばれる。

サーサーン朝の時代に、ザーヤンデルードにシャハレスターン橋英語版が架けられる。17世紀のサファヴィー朝では、アッバース1世からアッバース2世の治世にかけて大規模なザーヤンデルードの治水工事が行われたが、アッバース2世の死後に工事は中止された[50]。20世紀以降は地球温暖化と用水の利用過多によりザーヤンデルードが干上がることがあり、町は水不足に悩まされている[7]

周囲には沃野が広がり、穀物類、ケシメロンなどが栽培されている[3]。旅行家イブン・バットゥータは『大旅行記』で、エスファハーンで獲れたアンズスイカの甘味を称賛した[23]。エスファハーンにはハトのフンを肥料に使う伝統的な農法があり、郊外には「ハトの塔」という名前の施設が建つ[7]。「ハトの塔」はハトの住処として造られ、塔に溜まったフンが肥料に利用されていたが、20世紀後半以降は使用されていない[8]


注釈

  1. ^ 20世紀のイランの作家サーデグ・ヘダーヤトは、1932年に同名の紀行文『エスファハーンは世界の半分』を発表した。(『事典 イスラームの都市性』、59頁)
  2. ^ a b 1979年のイラン革命パフラヴィー朝が崩壊した後、王(シャー)という言葉の使用が禁止されたため、王のモスクはイマーム・モスク、王の広場はイマーム広場に改称された。(宮田『物語イランの歴史 誇り高きペルシアの系譜』、83-84頁)
  3. ^ 「チャハール・バーグ」とは「4分割された庭園」の意であり、4本の水路と4つの区画に由来する。(NHK「アジア古都物語」プロジェクト編『イスファハン オアシスの夢』、178-179頁)

出典

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  2. ^ 『イランを知るための65章』、6頁
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  4. ^ 『イランを知るための65章』、206頁
  5. ^ 宮田『物語イランの歴史 誇り高きペルシアの系譜』、84頁
  6. ^ NHK「アジア古都物語」プロジェクト編『イスファハン オアシスの夢』、18頁
  7. ^ a b c d e f g 『西アジア』、111頁
  8. ^ a b c d e f 上岡『イラン』、291-293頁
  9. ^ a b 蟻川明男『世界地名語源辞典』(三訂版, 古今書院, 2003年3月)、37頁
  10. ^ a b c d e f g h 『ユネスコ世界遺産 3(西アジア)』、200-211頁
  11. ^ 『世界の地名・その由来 アジア篇』(和泉光雄編著, 講談社出版サービスセンター, 1997年1月)
  12. ^ a b c 『事典 イスラームの都市性』、605頁
  13. ^ a b c 坂本「イスファハーン」『新イスラム事典』、93頁
  14. ^ a b c d e f g 羽田「イスファハーン」『岩波イスラーム辞典』、121頁
  15. ^ NHK「アジア古都物語」プロジェクト編『イスファハン オアシスの夢』、169頁
  16. ^ a b c d e 『西アジア』、109頁
  17. ^ NHK「アジア古都物語」プロジェクト編『イスファハン オアシスの夢』、169-170頁
  18. ^ NHK「アジア古都物語」プロジェクト編『イスファハン オアシスの夢』、170頁
  19. ^ a b NHK「アジア古都物語」プロジェクト編『イスファハン オアシスの夢』、171頁
  20. ^ 『イランを知るための65章』、154頁
  21. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻(佐口透訳注, 東洋文庫, 平凡社, 1973年6月)、26-28頁
  22. ^ a b c d e NHK「アジア古都物語」プロジェクト編『イスファハン オアシスの夢』、176頁
  23. ^ a b イブン・バットゥータ『大旅行記』2巻(家島彦一訳注, 東洋文庫, 平凡社, 1997年4月)、311-312,373頁
  24. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』6巻(佐口透訳注, 東洋文庫, 平凡社, 1979年11月)、386-388頁
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  75. ^ Isfahan, Beirut named sister cities”. MNA. 2007年5月2日閲覧。
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