エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/17 15:35 UTC 版)
称号
- 1729年4月21日(ロシア暦)/5月2日(グレゴリオ暦) – 1745年8月10日(ロシア暦)/8月21日(グレゴリオ暦)
侯女殿下 ゾフィー・アウグスタ・フレデリーケ・アンハルト=ツェルプスト侯女 - 1745年8月10日(ロシア暦)/8月21日(グレゴリオ暦) – 1761年12月25日(ロシア暦)/1762年1月5日(グレゴリオ暦)
皇太子妃殿下 エカチェリーナ・アレクセーエヴナ大公妃 - 1761年12月25日(ロシア暦)/1762年1月5日(グレゴリオ暦) – 1762年6月28日(ロシア暦)/7月9日(グレゴリオ暦)
皇后陛下 全ロシアの皇后陛下 - 1762年6月28日(ロシア暦)/7月9日(グレゴリオ暦) – 1796年11月6日(ロシア暦)/11月17日(グレゴリオ暦)
女帝陛下 全ロシアの女帝陛下にして専制君主
人物
文化・教育
ロシアの文化・教育の整備にも力を注ぎ、英邁の誉れ高い女性側近ダーシュコワ夫人をアカデミー長官に据え、ロシア語辞典の編纂事業に着手し、後世のロシア文学発展の基盤を造る。ボリショイ劇場や離宮エルミタージュ宮殿(現在の小エルミタージュのこと。後に隣接する冬宮など新旧の宮殿と合わせ、現在はエルミタージュ美術館として一般公開)の建設にも熱心であった。[要出典]また、女子貴族のための学校「スモーリヌィ女学院」を設立し、ヨーロッパ諸国の宮廷・社交界に送り込む貴婦人の養成にも力を入れた。エカチェリーナ2世自身も文筆に勝れ、回想録、書簡、童話、戯曲などの文芸作品を残している。
その一方、晩年になって革命勢力への警戒心から民間の文化活動を監視するようになる。その一例としてロシア初の諷刺雑誌を刊行し、啓蒙主義者として数えられるニコライ・ノヴィコフを1792年に逮捕させ、1796年までペトロ・パヴロフスク要塞に投獄したことが挙げられる[8]。
私生活
私生活の面では生涯に約10人の公認の愛人を持ち、数百ともいわれる愛人を抱え、夜ごとに人を変えて寝室をともにしたとする伝説もある。孫のニコライ1世には「玉座の上の娼婦」とまで酷評される始末であった。
1774年頃(45歳頃)、エカチェリーナは10歳年下のポチョムキン(タヴリチェスキー公爵)と結ばれる。家庭には恵まれなかったエカチェリーナの生涯唯一の真実の夫と言うべき男性で、私生活のみならず、政治家・軍人としても女帝の不可欠のパートナーとなった。「2人は秘密裏に結婚し、エカチェリーナが46歳の時(1775年)に2人の間には実娘エリザヴェータ・ポチョムキナ(チョムキナ)が産まれた。ポチョムキナ(チョムキナ)は後にイヴァン・カラゲオルギ将軍と結婚し、その末裔は現在も実在している。」などの説がある[9]。2人に男女の関係がなくなった後も「妻と夫」であり続け、エカチェリーナの男性の趣味を知り尽くしたポチョムキンが、選りすぐった愛人を女帝の閨房に送り込んでいたという。
互いの信頼関係は長く続いたが、1791年、ポチョムキンは任地に向かう途中で倒れ、女帝に先立って病没した。晩年のポチョムキンは女帝から遠ざけられ、失意のうちに死去したとされるが、女帝は「夫」の訃報に「これからは1人でこのロシアを治めなければならないのか!」と深く嘆き悲しんだという。
ポチョムキン以降に女帝が関係を持った寵臣のほとんどは、公的な影響力を持たなかった。例外として、アレクサンドル・ランスコイは美貌だけでなく、それなりの能力もあって女帝を補佐し、しかも、国家や宮廷の問題には関与せず、女帝の寵愛も深かったが、1784年に26歳の若さで急逝した。
また、エカチェリーナ最晩年の寵臣だったプラトン・ズーボフはポチョムキンの立場をも脅かすほどの影響力を持ち、ポチョムキンの死後は老齢の女帝の寵愛を良い事にかなりの権力を持ったようだが、容姿以外に大した能力はなく[要出典]、女帝の死と共に失脚した。
主な愛人たち
-
スタニスワフ・ポニャトフスキ伯爵(後のポーランド国王)
-
アレクサンドル・ヴァシーリチコフ
-
グリゴリー・ポチョムキン公爵、エカチェリーナの生涯唯一の真実の夫と伝えられる
-
ピョートル・サヴァドーフスキー
-
シメオン・ゾーリッチ
-
イヴァン・リムスキー=コルサコフ
-
アレクサンドル・ランスコイ
-
アレクサンドル・イェルモーノフ
-
アレクサンドル・マモーノフ
-
プラトン・ズーボフ
エカチェリーナ所生の子供たち
-
エカチェリーナとセルゲイ・サルトゥイコフ伯爵との息子と伝えられるパーヴェル・ペトロヴィチ大公(後のパーヴェル1世)
-
エカチェリーナとグリゴリー・オルロフ公爵の息子アレクセイ・グリゴリエヴィチ・ボーブリンスキー伯爵
-
エカチェリーナとグリゴリー・ポチョムキン公爵との娘と伝えられるエリザヴェータ・ポチョムキナ(チョムキナ)
日本人が見たエカチェリーナ2世
1783年、伊勢白子(現在の三重県鈴鹿市)の船頭である大黒屋光太夫は、江戸への航海途中に漂流し、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着。その後ロシア人に助けられ、シベリアの首府イルクーツクに滞在した。ここで学者のキリル・ラックスマンの援助で、帰国請願のためサンクト・ペテルブルクに向かい、1791年、エカチェリーナ2世に拝謁して、帰国の儀を聞き届けられている。
キリルの次男アダム・ラックスマンが、江戸幕府の統治下で鎖国状態を続けてきた日本に対して、大黒屋光太夫および小市、磯吉の三名を返還すると同時に、シベリア総督の通商要望の信書を手渡すために、遣日使節として日本に派遣され、1792年、光太夫らは蝦夷地の根室(現在の北海道根室市)に帰着した。
1803年にはアレクサンドル1世(エカチェリーナ2世の孫)に、津太夫ら若宮丸乗組員10名の日本人が拝謁したが、その際の通訳を新蔵(大黒屋光太夫と共にアムチトカ島に漂着したがロシアに帰化)が行っている[10]。
- ^ a b ロシア語版のタイトルは「アンナ・ペトロヴナ(エカチェリーナ2世の娘)」とされており「(ピョートル3世の娘)」ではない。Infoboxの父親欄は公式のピョートル3世となっている。実際にはスタニスワフ・ポニャトフスキ伯爵(後のポーランド国王)との娘だが、ピョートル3世がエカチェリーナから求められて認知した。
- ^ グリゴリー・グリゴリエヴィチ・オルロフとの息子。
- ^ 中野京子『名画で読み解く ロマノフ家12の物語』光文社、2014年、96頁。ISBN 978-4-334-03811-3。
- ^ a b ロシア語版では父親をスタニスワフ・ポニャトフスキ伯爵(後のポーランド国王)かグリゴリー・オルロフ公爵のどちらかだとしている。
- ^ a b 英語版では1761年に生まれた、エカチェリーナとオルロフの娘だとされている。
- “They had two illegitimate children, Yelizaveta and Aleksey, who were born in 1761 and 1762"
- ^ なお、プロイセンとの攻守同盟、教会の国有化政策はエカチェリーナの治世でも続けられた。
- ^ しかし、実際にはエカチェリーナ2世は前王朝のリューリク朝のトヴェリ大公アレクサンドル・ミハイロヴィチの直系の子孫の一人であり、彼の父親はロシア正教の聖人であり、「全ルーシ(ロシア)の大公」を自称した最初の人物である。故に、彼女はロマノフ朝の血統ではないものの、ロシアのツァーリの皇統の血を引く人物でもあり、ルーシやロシアの高名な歴史的人物の先祖を多く持つエカチェリーナ2世は全くロシアに関わりの無い人物と言う訳では無い。
- ^ A・ゲルツェン『ロシヤにおける革命思想の発達について』岩波文庫、1950年、99-100頁。
- ^ かなり信憑性の高い史料であるエカチェリーナとポチョムキンが交わした1162通もの往復書簡(モスクワのロシア国立公文書館に所蔵、ソビエト崩壊後の1997年に歴史学者ヴャチェスラフ・ロパーチン博士によって『エカチェリーナ2世とG・A・ポチョムキンの個人往復書簡集』(Екатерина II и Г. А. Потемкин. Личная переписка)として公表されたЕкатерина Вторая и Г. А. Потемкин «Личная переписка 1769-1791» - エカチェリーナとポチョムキンが交わした1162通もの往復書簡の全文を掲載。(PDF版))からもそういう事実があった可能性が窺えるが、今も研究が続いている。
- ^ “若宮丸漂流民の概略”(石巻若宮丸漂流民の会)2021年1月12日閲覧
- ^ a b 「エカテリーナ2世像撤去 帝政ロシア皇帝 オデーサ当局、露に反感」『読売新聞』朝刊2022年12月30日(国際面)2023年1月18日閲覧
- エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)のページへのリンク