エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/17 15:35 UTC 版)
授与された勲章
- 聖エカテリーナ勲章 - 1744年授与
- 聖アンドレイ勲章 - 1762年授与
- 聖アレクサンドル・ネフスキー勲章 - 1762年授与
- 聖アンナ勲章 - 1762年授与
- 聖ゲオルギー勲章 - 1769年授与
- 聖ウラジーミル勲章 - 1782年授与
- 黒鷲勲章 - 1762年授与
系譜
エカチェリーナ2世 | 父: クリスティアン・アウグスト (アンハルト=ツェルプスト侯) |
祖父: ヨハン・ルートヴィヒ1世 |
曽祖父: ヨハン6世 (アンハルト=ドルンブルク侯) |
曽祖母: ゾフィ―・アウグスタ[1] | |||
祖母: クリスティーネ・エレノオーレ |
曽祖父: ゲオルク・ヴォルラス・フォン・ツォイッチュ | ||
曽祖母: クリスティーネ・フォン・ヴァイセンバッハ | |||
母: ヨハンナ・エリーザベト |
祖父: クリスティアン・アウグスト |
曽祖父: クリスチャン・アルブレクト (シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公)[1] | |
曽祖母: フレゼリゲ・アメーリエ(デンマーク王女)[2] | |||
祖母: アルベルティーネ・フリーデリケ |
曽祖父: フリードリヒ7世マグヌス (バーデン=ドゥルラハ辺境伯) | ||
曽祖母: アウグスタ・マリー[1] |
[1]は、共にシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公フレゼリク3世の子。
[2]は、デンマーク王フレゼリク3世の子で、兄はデンマーク王クリスチャン5世、妹はスウェーデン王妃ウルリカ・エレオノーラ。
元イギリスの首相デーヴィッド・キャメロンは子孫の遠縁の一人である。
現代における評価
エカテリーナ2世時代に露土戦争での獲得地に建設された、ウクライナの港湾都市オデーサ(オデッサ)に建てられていたエカテリーナ2世像は、2022年ロシアのウクライナ侵攻に伴う反露感情の高まりを受けて、同年12月28日夜から翌日未明にかけて撤去された[11]。エカテリーナ2世を含めたロシア帝国に思い入れを持ち、ウクライナ侵攻を発動したロシア連邦大統領ウラジーミル・プーチンは同年10月、この像は「ウクライナの過激な民族主義者すら撤去しようとしない」と牽制していた[11]。
- ^ a b ロシア語版のタイトルは「アンナ・ペトロヴナ(エカチェリーナ2世の娘)」とされており「(ピョートル3世の娘)」ではない。Infoboxの父親欄は公式のピョートル3世となっている。実際にはスタニスワフ・ポニャトフスキ伯爵(後のポーランド国王)との娘だが、ピョートル3世がエカチェリーナから求められて認知した。
- ^ グリゴリー・グリゴリエヴィチ・オルロフとの息子。
- ^ 中野京子『名画で読み解く ロマノフ家12の物語』光文社、2014年、96頁。ISBN 978-4-334-03811-3。
- ^ a b ロシア語版では父親をスタニスワフ・ポニャトフスキ伯爵(後のポーランド国王)かグリゴリー・オルロフ公爵のどちらかだとしている。
- ^ a b 英語版では1761年に生まれた、エカチェリーナとオルロフの娘だとされている。
- “They had two illegitimate children, Yelizaveta and Aleksey, who were born in 1761 and 1762"
- ^ なお、プロイセンとの攻守同盟、教会の国有化政策はエカチェリーナの治世でも続けられた。
- ^ しかし、実際にはエカチェリーナ2世は前王朝のリューリク朝のトヴェリ大公アレクサンドル・ミハイロヴィチの直系の子孫の一人であり、彼の父親はロシア正教の聖人であり、「全ルーシ(ロシア)の大公」を自称した最初の人物である。故に、彼女はロマノフ朝の血統ではないものの、ロシアのツァーリの皇統の血を引く人物でもあり、ルーシやロシアの高名な歴史的人物の先祖を多く持つエカチェリーナ2世は全くロシアに関わりの無い人物と言う訳では無い。
- ^ A・ゲルツェン『ロシヤにおける革命思想の発達について』岩波文庫、1950年、99-100頁。
- ^ かなり信憑性の高い史料であるエカチェリーナとポチョムキンが交わした1162通もの往復書簡(モスクワのロシア国立公文書館に所蔵、ソビエト崩壊後の1997年に歴史学者ヴャチェスラフ・ロパーチン博士によって『エカチェリーナ2世とG・A・ポチョムキンの個人往復書簡集』(Екатерина II и Г. А. Потемкин. Личная переписка)として公表されたЕкатерина Вторая и Г. А. Потемкин «Личная переписка 1769-1791» - エカチェリーナとポチョムキンが交わした1162通もの往復書簡の全文を掲載。(PDF版))からもそういう事実があった可能性が窺えるが、今も研究が続いている。
- ^ “若宮丸漂流民の概略”(石巻若宮丸漂流民の会)2021年1月12日閲覧
- ^ a b 「エカテリーナ2世像撤去 帝政ロシア皇帝 オデーサ当局、露に反感」『読売新聞』朝刊2022年12月30日(国際面)2023年1月18日閲覧
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