国際的孤立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/11 14:02 UTC 版)
「フェルディナンド2世 (両シチリア王)」の記事における「国際的孤立」の解説
治世後半、自由主義への憎悪を露にしたフェルディナンド2世は容赦のない弾圧を継続した。3年の間に数千人の政治犯が投獄され、それと同じ位の人間が他国へ亡命を図った。イギリスの政治家グラッドストンは「南イタリア王国」で自由主義に対する弾圧を目の当たりにして憤慨し、イギリス議会にブルボン朝の強権を訴えて反王党派を支援した。しかし実際にグラッドストンが南イタリアを訪れたことはなく、報告は信憑性に欠ける部分がある。しかしイギリス議会は、グラッドストンの訴えが始まる以前からシチリア島の硫黄を望んでおり、王権を弱める材料を望んで積極的に反王党派運動の支援を展開した。また1850年代には、立憲君主や自由政府を持ちつつあった他の諸外国でも、後進的な絶対君主の国という悪名が広がった。伝統的にナポリ王国やトリナクリア王国を支援してきたイギリスが離反したことも相まって、両シチリア王国は次第に国際社会から孤立していった。 1856年、反王党派の兵士によるフェルディナンド2世の暗殺未遂事件が発生した。その場では命は落とさなかったものの深手を負い、フェルディナンド2世は感染症によって長い闘病生活に入った。それから3年後の1859年5月22日、フェルディナンド2世は病没した。折しもサルデーニャ王国とフランス帝国による対オーストリア戦争が始まった直後で、まだ若年の息子フランチェスコ2世が即位するものの、王国は混乱の渦中でイタリア統一戦争を迎えることになった。
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