X JAPANの結成
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「YOSHIKI」の記事における「X JAPANの結成」の解説
詳細は「X JAPAN」を参照 1982年の夏、大学受験に専念するメンバーが離脱したNOISEを解散。当時はアイアン・メイデンのアルバム『鋼鉄の処女』や『キラーズ』に感化されており、ボーカルに転向したToshlと他校の生徒によるツインリードギター編成で、よりハードなロックを指向したバンド「X」(現在のX JAPAN)を新たに結成する。Xでは既存の楽曲の演奏だけでなくオリジナル楽曲の作曲も始め(Xのために初めて作曲した楽曲「I'LL KILL YOU」は、1985年にXの1作目のシングルとしてリリースされている)、演奏のレパートリーを着実に増やしていった。 高校3年から音楽大学を目指して本格的にピアノに打ち込み、受験用のプログラムを通して、ソルフェージュ、和声、楽典などの音楽理論を学んだ。受験勉強の合間にはXとしていくつかのバンド・コンテストに出場。ヤマハ主催のアマチュアのバンド・コンテスト『EastWest』の千葉県大会ではバンドとしての受賞こそ逃したものの、個人でベスト・ドラマー賞を受賞した。Toshlもまた、その後に参加したコンテストでベスト・ボーカル賞を受賞していた。このことにバンドとしての可能性に自信を深め、大学に進学せず東京でバンドを続ける決意を固めたことをToshlに告げられ、これに呼応し音楽大学への推薦入学が決まっていた道を断つ決心をした。 高校を卒業すると、本格的にバンド活動を行うためにToshlと共に上京。ライブ・ハウス時代には、Xが出演していたライブ・ハウス「神楽坂EXPLOSION」の店員がDoomのメンバーであった繋がりから、Doomの初ライブでヘルパーとしてドラムを叩いている。また、Xの活動と並行してLip CreamのNAOKI、ORANGEのACTとともにパンク・バンド「L・O・X」を結成して活動していた。 Xのレコードをリリースするため、1986年にインディーズのレコード会社「エクスタシーレコード」を設立。1988年に同社よりリリースしたXの1作目のアルバム『Vanishing Vision』はオリコンの週間チャートで最高19位を記録し、インディーズ・レーベルの作品として日本のメジャー・チャートにランクインした初めてのアルバムとなった。翌1989年にXの2作目のアルバム『BLUE BLOOD』でCBSソニーからメジャー・デビュー。年末には日本有線大賞の最優秀新人賞、全日本有線放送大賞の最優秀新人賞、第4回日本ゴールドディスク大賞の最優秀新人賞などを受賞した。X JAPANの1993年のアルバム『ART OF LIFE』からはバンドのプロデューサーも担っている。
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