WWWF〜WWF
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「ラリー・ズビスコ」の記事における「WWWF〜WWF」の解説
ハイスクールからペンシルベニア州立大学時代に培ったレスリングの素養を下地に、ブルーノ・サンマルチノとニュートン・タットリーのトレーニングを受け、彼らがプロモートしていたペンシルベニア州ピッツバーグでの興行において1972年9月1日にデビュー。ポーランド系の出自ということもあり、リングネームは戦前に活躍したポーランドの伝説的レスラー、スタニスラウス・ズビスコ(英語版)にあやかって付けられた。 ピッツバーグや太平洋岸北西部での活動を経て、1974年よりWWWFへ本格的に参戦。「ニューヨークの帝王」サンマルチノの愛弟子として、ベビーフェイス陣営の重鎮だったゴリラ・モンスーンやヘイスタック・カルホーンのパートナーにも起用され、バリアント・ブラザーズ、キラー・コワルスキー、ボビー・ダンカン、ニコライ・ボルコフなどと対戦してキャリアを積む。同年はプロレスリング・イラストレーテッド誌の新人賞を受賞。翌1975年9月にはサンマルチノの斡旋で全日本プロレスに初来日している。 ジョージア、フロリダ、ノース&サウスカロライナ、ロサンゼルスなどNWAの各テリトリーも転戦しつつ、1977年よりWWWFに定着。1978年11月21日にはトニー・ガレアと組んでピエール&エリックのユーコン・ランバージャックスからWWWF世界タッグ王座を奪取、翌1979年3月6日にジョニー&ジェリー・バリアントに破れるまで戴冠した。 その間、ビンス・マクマホン・シニアのブッキングで1978年6月に新日本プロレスに来日。新日本には1979年4月の第2回MSGシリーズにも参加し、予選で星野勘太郎に2勝して決勝リーグに進出。アントニオ猪木や藤波辰巳、アンドレ・ザ・ジャイアントやスタン・ハンセンとも公式戦で対戦したが、パートナーのガレアから1勝を挙げたのみの戦績で終わった。 WWWFがWWFに改称してからも、若手のベビーフェイスとして新王者ボブ・バックランドやサンマルチノのパートナーを務めたが、1980年1月22日に行われたサンマルチノとのエキシビション・マッチでヒールに転向。恩師を裏切った男として観客の大ブーイングを浴びる。以降、かつての師匠との遺恨試合を東部一帯で繰り広げ、同年8月9日にはシェイ・スタジアムに3万6295人の大観衆を集めた "Showdown at Shea" のメインイベントでスチール・ケージ・マッチを行った。
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