WWWF〜WWFとは? わかりやすく解説

WWWF〜WWF

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/14 16:43 UTC 版)

ラリー・ズビスコ」の記事における「WWWF〜WWF」の解説

ハイスクールからペンシルベニア州立大学時代培ったレスリング素養下地に、ブルーノ・サンマルチノニュートン・タットリートレーニングを受け、彼らがプロモートしていたペンシルベニア州ピッツバーグでの興行において1972年9月1日デビューポーランド系出自ということもあり、リングネーム戦前活躍したポーランド伝説的レスラースタニスラウス・ズビスコ英語版)にあやかって付けられた。 ピッツバーグ太平洋岸北西部での活動経て1974年よりWWWF本格的に参戦。「ニューヨーク帝王」サンマルチノの愛弟子として、ベビーフェイス陣営重鎮だったゴリラ・モンスーンヘイスタック・カルホーンパートナーにも起用されバリアント・ブラザーズキラー・コワルスキーボビー・ダンカンニコライ・ボルコフなどと対戦してキャリアを積む同年プロレスリング・イラストレーテッド誌の新人賞受賞。翌1975年9月にはサンマルチノの斡旋全日本プロレス初来日している。 ジョージアフロリダノース&サウスカロライナロサンゼルスなどNWAの各テリトリー転戦しつつ、1977年よりWWWF定着1978年11月21日にはトニー・ガレア組んでピエール&エリックユーコン・ランバージャックスからWWWF世界タッグ王座奪取、翌1979年3月6日ジョニー&ジェリー・バリアント破れるまで戴冠したその間ビンス・マクマホン・シニアブッキング1978年6月新日本プロレス来日新日本には1979年4月第2回MSGシリーズにも参加し予選星野勘太郎に2勝して決勝リーグ進出アントニオ猪木藤波辰巳アンドレ・ザ・ジャイアントスタン・ハンセンとも公式戦対戦したが、パートナーガレアから1勝を挙げたのみの戦績終わったWWWFWWF改称してからも、若手ベビーフェイスとして新王者ボブ・バックランドやサンマルチノのパートナー務めたが、1980年1月22日行われたサンマルチノとのエキシビション・マッチヒール転向恩師裏切った男として観客の大ブーイング浴びる。以降、かつての師匠との遺恨試合東部一帯繰り広げ同年8月9日にはシェイ・スタジアムに36295人の大観衆を集めた "Showdown at Shea" のメインイベントでスチール・ケージ・マッチを行った

※この「WWWF〜WWF」の解説は、「ラリー・ズビスコ」の解説の一部です。
「WWWF〜WWF」を含む「ラリー・ズビスコ」の記事については、「ラリー・ズビスコ」の概要を参照ください。

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