TWR時代
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1996年の序盤に、ベネトンやリジェを率いていたトム・ウォーキンショーがチーム買収に成功。チーム運営もスポーツカーレースで数々の好成績を収めていた「トム・ウォーキンショー・レーシング(TWR)」が行うこととなり、コンストラクターズ名称もアロウズに戻った。 1997年には、著名デザイナーのジョン・バーナードと、前年にウィリアムズでチャンピオンになったデイモン・ヒルを獲得し、A18はカーナンバー"1"を纏った。エンジンはヤマハ、タイヤはブリヂストンと奇しくも日本関連の陣容となった。開幕当初はヒルをもってしても苦戦が続いていたが、ハンガリーGPで快走を見せ、ファイナルラップ途中でマシントラブルによりジャック・ヴィルヌーヴに抜かれるまではトップを独走していた(最終的には2位でフィニッシュ)。 しかし、TWR傘下のハートとの軋轢からヤマハが撤退し、ヒルも1年限りで移籍。バーナードの意欲作A19も成功しなかった。1999年はナイジェリアのマリク王子と投資銀行モルガン・グレンフェルが経営参加し、「t-minus(ティーマイナス)」という謎のブランドを提唱。日本人ドライバーの高木虎之介が加入したが、予選ではバックマーカーが定位置となりチームとしてわずか1ポイントの獲得に終わる。 2000年はOrangeのメインスポンサーを獲得し、スーパーテックエンジンを搭載。直線スピードの速いA21で意外な好走を見せた。 2001年にはプジョー改めアジアテックエンジンの無償供給を受けるものの、成績は低迷。わずか1ポイントの獲得に終わる。 2002年はフォード・コスワース・CRエンジンのカスタマー供給を受け、さらにはニューマシンA23の出来が良く、新加入のハインツ=ハラルド・フレンツェンがしばしば好走を見せたが、資金難は悪化する一方でモナコGPでは撤退の話が出た。当時ウォーキンショー代表は明確に撤退を否定したが、イギリスGPで再度撤退するのではないかとの噂が流れた。次戦のフランスGPでは両ドライバー共に予選アタックを全開で行うことなく「予定通り」に予選不通過となる。結局、ドイツGPを最後に一時休止の決断をするが、その後復活を果たすことなく、足掛け25シーズンにわたるアロウズのF1参戦は終止符を打った。
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