TAC(二代目)の製造開始まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/06 00:40 UTC 版)
「TAC (コンピュータ)」の記事における「TAC(二代目)の製造開始まで」の解説
翌年これを元に同省同費の申請がされ、1011万円という、国内としては巨額の費用が認められた。 当時欧米ではコンピュータが専門分野で稼動し始めており、注目したユネスコが国際計数センター(IOC)を設立する。村田によると、IOCにより1951年2月にパリ条約[要曖昧さ回避]会議が開催され、山下と外務省の萩原徹が出席。これに刺激されてTACに多大な予算が出たという。また大蔵省で当時主計官をしていた相澤英之のひらめきや、その他の各関係分野の権威の力添えでも、資金が出たと語っている。 真空管による論理回路やウィリアムス管を研究していた東芝が参加してハードウェア、東大側がソフトウェアを研究する形で研究が進められ、製造契約も結ばれた。東芝TACではまだ手作りだったが、二代目は製品として設計されていた。 プログラムを担当したのは雨宮、元岡、山田、後藤、村田。村田は理学部から工学部に移り、M・V・ウィルクスがEDSACについて記した書籍"The Preparation of Programs for an Electronic Digital Computer"(電気式デジタル計算機用プログラムのために)を読みながら東芝TACを勉強、入出力部分を作っていた。命令セットでEDSACを参考にしているのはこれが理由である。 しかし半年たつと、東芝だけではハードが作れないため東大に協力を求め、結果として村田が東芝に派遣、ハード製作特にウィリアムス管のテストなど、八木の手伝いを一年半行った。 1954年末に試作機が東大に納入され、村田も東大に戻って中澤と共に実務を担当。計画管理は雨宮が行った。試作機は180cmの棚が12列あり、真空管が6550本ほど。17m×7.5mの部屋に入りきらず廊下にはみ出していた。調整は東芝の松隈と八木、および工場から派遣された1-2名の計3-4名で行った。 当初は2年で研究、技術レベルを上げるのが目標だったが、文部省・大蔵省に金を出させるため、2年で実用化というノルマをむりやり定着させられ、雨宮も強引に計画書に書かされたようなものだという。
※この「TAC(二代目)の製造開始まで」の解説は、「TAC (コンピュータ)」の解説の一部です。
「TAC(二代目)の製造開始まで」を含む「TAC (コンピュータ)」の記事については、「TAC (コンピュータ)」の概要を参照ください。
- TACの製造開始までのページへのリンク